「朝の祈り」林竹治郎(1871-1941)第一回文展入選作(1906作)北海道立美術館蔵
母のひざに伏して祈っている三歳ほどの男の子は、後に北大医学部一期生として入学し、卒業後は医師として「救ライ(ハンセン病患者救済)」の働きのために生涯をささげた林文雄博士です。
敬虔なクリスチャンであった両親は、清貧の中から息子を医学部に学ばせ、卒業してやれやれと思ったら、本人は「最も人の手の足りないところ、もっとも人が嫌がるところ、そして最も苦しむ人々のために生きよう」と、ハンセン病患者救済のための医師としての道を歩み始めました。
当初、林竹治郎画伯は、息子が救ライ活動(ハンセン病患者救済)の医師になることを大反対していました。しかし晩年には、住んでいた札幌から鹿児島の国立ライ療養所「星塚敬愛園」の初代園長の立場にあった息子のもとに移り住み、共に住みハンセン病患者救済のために自分の絵を売ってクリスチャンである息子の働きを側面から支えました。そして、「楽園」と呼んでいた息子の家でその生涯を終えました。
鹿児島の星塚敬愛園には、 1935年10月5日から1944年2月9日まで園長をつとめていた林文雄博士を記念した石碑があり、その中央には林竹治郎画伯の「朝の祈り」のレリーフ(下の写真・星塚敬愛園ホームページから)がおさめられています。
なお、林文雄博士は、ハンセン病の病型分類に大きく貢献し、世界的にも評価された研究者としても知られています。南九州、奄美、沖縄などのハンセン病患者救済のために活動し、理想の療養所建設に力を注いでいましたが肺結核で倒れ、1947年7月18日に天に召されました。
それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
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