松見ヶ丘キリスト教会でご奉仕くださったプリスキラ・クンツ宣教師のご両親も宣教師として日本に来られた方ですが、父親であるアルトゥール・クンツ宣教師が、日本において宣教師として活動を始めたのは1952年のことでした。
当時のリーベンゼラー・ミッションは、まだ福音が届いていない農漁村に福音を運ぼうという方針のもとに、茨城県の町や村に熱心に伝道活動を展開したのです。クンツ宣教師もスクーターにまたがり、筑波のふもとの町や村を訪ね、一軒一軒トラクト(キリスト教についてのわかりやすい小さな読み物)を配り、イエス・キリストの福音のメッセージを伝えました。
第一期の宣教活動を終えスイスに帰国した時、日本人宣教の重荷を抱いていたルツ・リンダ神学生との結婚に導かれ、第二期は夫婦として日本に派遣されました。二人の任地は、賀川豊彦が「茨の城の石の岡」と称したほど、当時はキリスト教に対しては固く心を閉ざしていた石岡でした。
大きなテントを張って伝道集会を行う「天幕伝道」から始め、洋裁学校の一室を借りての定例集会、地道なトラクト配布と、福音の種を蒔き続けました。やがてキリスト教に心を閉ざしていた町の中からも、福音を信じてクリスチャンとなる人々が起こされるようになりました。それにともないクンツ宣教師たちに対する妨害活動も激しくなり、「この町から出て行け、さもないと大変なことが起こるー悪魔より」という脅迫状まで届いたのです。
このような脅迫状が届いても単なる脅かしと思っていたところ、洋裁学校での集会に出掛けている間に、宣教師館が何者かによって放火されるという事件が起こったのです。その際、ベッドに寝かしつけられていた二歳のダマリスちゃんが犠牲となり焼死するというクンツ宣教師夫妻にとってはとてもつらく悲しい出来事でした。それは日本人を愛し、はるばる日本にやって来て苦労を重ね、日本人のために仕えてた二人に対してはあまりにもむごい仕打ちでした。
しかしこのような悲しい事件があったにもかかわらず、クンツ宣教師夫妻の日本人を愛する思いは消え去ることがありませんでした。二人は以前と同じようにトラクトを片手に訪問伝道を続けたといいます。次女プリスキラさんと三女のタビタさんは、両親のトラクト配布によく一緒に連れて行かれました。子どもだけを家に残すしことをためらったからです。
両親に対する二人の姉妹の印象は、日本人を愛して、いつでも福音を伝ようとする姿勢でした。妹のタビタさんは、「母が火事のサイレンの音を嫌がった記憶はあっても、日本人を恨んだ言葉を両親から聞いた記憶がありません」と私に話してくださいました。
1991年9月、クンツ宣教師夫妻は、日本での働きを終えて母国スイスに帰国しました。帰国の際、クンツ宣教師は放火事件を回想して次のように語っています。
「娘は一粒の麦となったのです。一粒の麦が落ちて死なないならば一粒のままだが、もし死ぬならば、多くの実を結ぶと聖書にありますから。神様は、その大切なひとり子を犠牲にしたのですから、わたしの伝道にも犠牲があったのです。つらかったけれども……」。
それからしばらくの年数が経ち、ご一家の日本での働きが過去の出来事になりつつあった時、スイスで栄養師をしていた次女のプリスキラさんと小学校教師の三女のタビタさんが話し合ったわけでもなく、同時にその仕事を辞め、宣教師として日本にやって来たのです。驚くべきことに、クンツ一家の日本人への愛は一代で途切れることなかったのです。
愛する娘を失うというつらく悲しい事件があったにもかかわらず、親子二代にわたって日本人を愛し続けるクンツ宣教師一家のこれらの事実を私はキリストにある愛の奇跡であると思っています。イエス・キリストが十字架の愛が心に迫っていたクンツ宣教師一家は、そのキリストの愛に倣って日本人を愛し続けたのです。
「今日の聖書」 ヨハネの福音書12章24節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
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