yagi juukiri
 松見ケ丘キリスト教会のある町田市は、東京都内では23区、八王子市に次いで三番目に人口の多い地です。1960年代からは東京のベッドタウンとして発展しましたが、多摩丘陵にあるために今でも田園風景が数多く残っています。

 クリスチャン詩人として知られている八木重吉は1898年、南多摩郡堺村相原大戸(町田市相原町)で生まれました。最初に出版した詩集「秋の瞳」の中には、自然豊かなふるさとの相原への郷愁をうたった詩がおさめられています。

   「ふるさとの川
    ふるさとの川よ
    ふるさとの川よ
    よい音をたててながれているだろう

   「ふるさとの山
    ふるさとの山をむねにうつし
    ゆうぐれをたのしむ

 現在、生家の敷地内にあった土蔵は改造され、八木重吉記念館となっています。そして、前を通っている町田街道の生家付近は今なお緑豊かな景色です。

八木重吉
 重吉は神奈川県師範学校を経て東京高等師範学校の英語科に進みました。在学中、クリスチャンの同級生と親しくなり、バイブルクラスに通うことがきっかけで洗礼を受け、熱心なクリスチャンとなりました。

 下宿先に、女子聖学院編入試験のために訪れた島田とみに、約一週間英語と数学を教えたことから親しくなり文通を始め、英語教員となった24歳のとき彼女とで結婚します。翌年、長女桃子を、翌々年には長男陽二をさずかりますが、体の弱かった重吉はやがて自分の死を意識するようになり、家族のことを思い涙します。

    「
    朝眼を醒まして
    自分のからだの弱いこと
    妻のこと子供達の行末のことをかんがえ
    ぼろぼろ涙が出てとまらなかった


 詩集「秋の瞳」を刊行した翌年、結核の病で臥せることになり、容体が悪化する中で第二詩集「貧しき信徒」の編纂に取りかかります。しかしその出版を見ることなく1927年、29歳の時、茅ヶ崎の自宅で天に召されました。貧しき信徒の最後の2篇は彼のあこがれていた天の故郷を思わせるものです。

    「無題
    神様あなたに会いたくなった

    「無題
    夢の中の自分の顔と言うものを始めて見た
    発熱がいく日もつづいた夜
    私はキリストを念じてねむった
    一つの顔があらわれた
    それはもちろん現在の私の顔でもなく
    幼ない時の自分の顔でもなく
    いつも心にえがいている最も気高い天使の顔でもなかった
    それよりももっとすぐれた顔であった
    その顔が自分の顔であるということはおのずから分った
    顔のまわりは金色をおびた暗黒であった
    翌朝眼がさめたとき
    別段熱は下っていなかった
    しかし不思議に私の心は平らかだった
 
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 「今日の聖書」ヘブル人への手紙 11章13〜16節

 

 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
 

 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。
 

 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。