いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサロニケ5章16〜18節

2021年07月

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三浦綾子

 もう五十年以上も前のことになりますが、ミッションスクールに通っていた友人から一冊の小説を贈ってもらいました。朝日新聞社から刊行されたばかりの三浦綾子著「氷点」です。「氷点」は。朝日新聞者が募集した一千万円懸賞小説に入選した小説で、懸賞小説の募集要項には、「既成の作家、無名の新人を問わない」とありましたが、実際に入選したのは雑貨屋を営む一主婦ということで大きな話題となりました。その後テレビドラマ化され、放映されるとその時間は銭湯がガラガラになるという社会現象になりました。日本テレビの人気番組「笑点」のネーミングもこの氷点をもじったものです。


 氷点のテーマは「原罪」ということで、人間が生まれついた時にもっている罪のことであるという説明を受けましたが、当時キリスト教には門外漢の私にとってはよく分かりませんでした。しかし氷点を読んで間もなく私は教会に通い始め、その年に洗礼を受けたので、私にとっては忘れることのできない小説となったのです。教会に通うようになり購読するようになった「信徒の友」には、この年から三浦綾子さんの「塩狩峠」が連載され、主人公永野信夫の生き方を通して、キリスト者として生きる姿がどのようなものであるかも知ることができました。氷点

 しかし、それまでの私の生き方を問うことになったのは、同じ友人から勧められた夏目漱石の「こころ」でした。この小説も同じ朝日新聞の連載小説で、テーマは原罪と関わりの深い「エゴイズム」の問題です。小説の語り手である「私」は主人公の「先生」に出会うことから物語が始まるのですが、先生の人生哲学は、「人はいざとなったら自己本位にしか生きることができないので、最終的に信じることができるのは自分しかいない」というものでした。


 これには私も大いに共感できるところがあり、本を読み進めていくうちに衝撃的な最終結論を知ることにななるのです。この「こころ」の読後感として、「これまで最終的に信じることができるのは自分しかいないと思っていたが、その自分をも信じることができないとしたら一体何を信じたら良いのか」ということでした。そのことが聖書に記されている真理を熱心に追い求めることになり、神を信じることにつながるのですから、私にとっての三浦綾子と夏目漱石は、キリスト教信仰への道を照らしてくれた大恩人であると言っても良いかも知れません。

 文芸評論家の佐古純一郎氏は、毎日新聞に連載した「キリスト教と文学」の中で、「キリスト教文学」が鮮明に成立してくるのは二十世紀に入ってからであり、しかもその十九世紀から二十世紀への転換点にたつ作家としてドストエフスキイの存在を挙げています。そして、表現の主体の問題とテーマの問題、さらに素材の問題と表現の視点の問題を挙げていますが、「キリスト教文学」の主体の問題に関しては、「それは、もうはっきりと、『キリスト者』と規定できるように思います。」と記しています。同じくキリスト者で作家の椎名麟三がドストエフスキイの影響を受けて信仰を持つようになったというのも興味深いことです。

雑貨屋

雑貨屋時代の三浦綾子さん


 文学作品は本来作家が読者にもっとも伝えたいモチーフを持っているべきであり、三浦綾子さんは、キリスト者として自らの信仰の立場から、エゴイズムと神の愛の関係、聖書の語る中心的なメッセージと現実の世界との関わりを文学という形式で表現していると言えます。

 三浦綾子さんの文学作品は「純文学」ではなく「護教文学」であると、文学通を自認する一部の人から揶揄されたこともありますが、読者に文学作品のテーマを通して自らの生き方を問い直させ、新しい生き方を示すという点では、彼女の作品の読者にいまだに大きな影響をもたらし続けています。その読者の一人として私も五十年以上前に自らの生き方を問われ、今このようにあるのですから。

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今日の聖書」ヨハネの福音書9章24〜33節

 そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

 彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」

 その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。 私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」



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