「ふるさとの川」
ふるさとの川よ
ふるさとの川よ
よい音をたててながれているだろう
ふるさとの山をむねにうつし
ゆうぐれをたのしむ
重吉は神奈川県師範学校を経て東京高等師範学校の英語科に進みました。在学中、クリスチャンの同級生と親しくなり、バイブルクラスに通うことがきっかけで洗礼を受け、熱心なクリスチャンとなりました。
「春」
朝眼を醒まして
自分のからだの弱いこと
妻のこと子供達の行末のことをかんがえ
ぼろぼろ涙が出てとまらなかった
詩集「秋の瞳」を刊行した翌年、結核の病で臥せることになり、容体が悪化する中で第二詩集「貧しき信徒」の編纂に取りかかります。しかしその出版を見ることなく1927年、29歳の時、茅ヶ崎の自宅で天に召されました。貧しき信徒の最後の2篇は彼のあこがれていた天の故郷を思わせるものです。
神様あなたに会いたくなった
夢の中の自分の顔と言うものを始めて見た
発熱がいく日もつづいた夜
私はキリストを念じてねむった
一つの顔があらわれた
それはもちろん現在の私の顔でもなく
幼ない時の自分の顔でもなく
いつも心にえがいている最も気高い天使の顔でもなかった
それよりももっとすぐれた顔であった
その顔が自分の顔であるということはおのずから分った
顔のまわりは金色をおびた暗黒であった
翌朝眼がさめたとき
別段熱は下っていなかった
しかし不思議に私の心は平らかだった
「今日の聖書」ヘブル人への手紙 11章13〜16節
私の毎朝の散歩コースである弘前福音キリスト教会から弘前公園までにある家の庭先に、かなりの花が植えられています。庭に少しの土の空間があるとなぜか野菜ではなく花なのです。
花を愛した詩人 八木重吉
八木重吉は農家の次男として東京都町田市に近い里、相原で生まれた詩人です。彼が東京師範学校の学生のとき、クリスチャンの同級生と親しくなりバイブルクラスに通うことがきっかけとなり、熱心なクリスチャンとなった人物です。
その澄み切った詩は今でも多くの人に愛され、私の大好きな詩人の一人でもあります。彼の生家の庭には今でもたくさんの花が植えられ、季節ごとに美しく咲き誇っているとのことです。
弘前福音キリスト教会の図書室にも「定本 八木重吉」「日本の詩集14 八木重吉詩集」「神を呼ぼう」「貧しき信徒」と、4冊の蔵書があります。ぜひ一度御読みください。
「ねがい」
きれいな気持ちでいよう
花のような気持ちでいよう
報いをもとめまい
いちばんうつくしくなっていよう
「神のごとくゆるしたい」
ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
花のようになったらば神のまえにささげたい
弘前公園 植物園入り口付近
八木重吉の「ひとすじの気持ち」とは
「花はなぜ美しいか ひとすじの気持ちで咲いているからだ」という八木重吉の詩があります。重吉のいう「ひとすじの気持ち」とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。
花は誰かに自分を見せようとして咲いているわけではありません。ただ植えられたところで、自分に与えられている時間の中でまっすぐ天に向かって伸びているだけです。それが山奥に咲く花ならば、誰の目にも留まらずにただ美しく咲き、そこで花のいのちを終えます。それが八木重吉には「ひとすじの気持ち」として映るのかも知れません。
これを人間にあてはめてみると、自分の成功や繁栄のためという隠れた動機を持たず、人に自分を良く見せるためにつくろうこともせず、ただ天の神を仰ぎ、素直な気持ちで神と人とを愛する生き方をいうのではないでしょうか。
八木重吉の詩を読む時に感じる心の清々しさは、自分の心の中にある様々な思いと戦いながら、なお花のように「ひとすじの気持ち」でいようとする彼の生き方から生まれて来る気がします。
「今日の聖書のみことば」 マタイの福音書5章8節
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。