いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサロニケ5章16〜18節

2019年07月

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カウナスの領事館は今も当時のまま残されている  撮影:S・YAMASHITA

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ホロコースト博物館記念樹

 イスラエル・エルサレムの新市街には、ホロコースト博物館があります。ナチス・ドイツによって虐殺されたユダヤ人犠牲者を追悼するための施設です。2013年、ホロコースト博物館の展示物はユネスコ記憶遺産に登録されました。

 

 この博物館には、ホロコーストに関して記憶されるべき様々な遺物や証言などが保存されていますが、ホロコースト博物館の敷地の中には、記憶されるべき人々の記念樹も植えられています。そのうちの一本にリトアニア領事館の領事代理としてユダヤ人避難民6000人にビザを発給し、ナチスから救った杉原千畝(すぎはら・ちうね)の記念樹もあります。

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 当時、リトアニア領事館の領事代理であった杉原千畝は、ヨーロッパ各地から逃れてきたユダヤ人難民の窮状を捨て置くことができず、外務省の訓令に反してビザを発給し続けました。

 終戦後ソ連での収容所生活を経て日本に戻って来た杉原千畝は、三ヶ月ほどすると外務省から呼び出され解雇を告げられました。その理由は外務省の訓令に背いてユダヤ人にビザを発給した責任を問われたからです。良心に従って行動した彼の行為に対して、外務省の同僚たちからは、「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という根も葉も噂が流されていました。

 極限状況のなかでとった人道的な行動を称賛されてしかるべきなのに、このような噂まで立てられていることを知った時の悔しさ悲しさはどれほどのものだったでしょうか。



 

 杉原一家の生活はたちまちのうちに困窮し、一家はしばらくは苦難の道を歩むことになります。しかし、リトアニアでの行動が報われたと感じる時がやって来るのです。1968年、ビザを発給してもらったうちの一人、ニシュリがイスラエル大使館の参事官として日本に赴任し、28年ぶりに二人が再会することになります。

 ニシュリが手に握っていたのは、もうボロボロになってしまったあの時のビザでした。このとき杉原千畝は、自分の行為が無駄でなかったことを知り、これまでの苦労が報われたという思いになったといいます。それは、リトアニアのカウナスの駅を離れるときにユダヤ人たちが叫んだ言葉、「私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたに会います」という、民族としての約束を彼らが果たした瞬間でもありました。



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左から幸子夫人と杉原千畝氏 右端が長男の弘樹氏(「六千人の命のビザ」から)

 杉原千畝のビザ発給によって救われた人々が、遂に「センポ・スギハラ」を探し当てたとき、彼が失職覚悟で日本政府の訓令に背いてまでもユダヤ人を救うために、ビザを発給し続けたことを知り、驚くのです。そして1985年、イスラエル政府は、危険を冒してナチスの迫害からユダヤ人を守った非ユダヤ人に対して贈られる「諸国民の中の正義の人」として、杉原千畝にヤド・ヴァシェム賞を贈り、報いを求めないで行ったその働きに感謝したのです 。日本政府によって杉原千畝氏の名誉回復がなされたのは2000年になってからのことです。


  私も杉原千畝氏のお名前とその働きについてはすでに知ってはいましたが、1995年エルサレムにあるホロコースト博物館を訪問し、ガイドから杉原千畝氏の記念樹前で彼の功績に関する説明をお聞きしたときは、人間として、キリスト者として、その良心の声に従って生きた杉原千畝氏の愛と勇気に感動し、涙を禁じ得ませんでした。


「杉原千畝」が「Google」の検索画面トップのロゴマークに1日限定で
杉原千畝

 2019年7月29日、「Google」は、検索画面トップのロゴマークに杉原千畝をあしらった1日限定の記念デザインを採用しました。今回の記念ロゴは、見開きのパスポートに杉原千畝の顔が描かれたデザインで、「Google」の文字の部分がビザのスタンプ風になっています。また人の形が多く描かれ、杉原が出した「命のビザ」で救われた6000人のユダヤ人を表現しています。


             今日聖書」 ヨハネの手紙 第一 3章13〜18節

 

 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。

 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

 

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日本二十六聖殉教者天主堂(大浦天主堂)

 

 「大浦天主堂」は、1865年に建てられ、現存する日本最古の木造ゴシック建造物で、1953年に国宝に指定され、2018年には世界遺産に登録されています。正式名には「日本二十 六聖殉教者天主堂」で、天主堂正面が26名のキリシタンが処刑された長崎西坂の丘に向けて建てられています。

 

 鎖国によって国を閉ざしていた江戸幕府の主なる目的は「キリスト教の禁止」にありました。明治政府になってもキリスト教の禁止の政策は引き継がれ、キリシタン禁制が解かれたのは明治6年(1873年)になってからです。当初この地で働きを始めたフランス人のプチジャン神父は、弾圧の中をくぐり抜けてきた信徒たちを捜しましたがなかなか見つけることができませんでした。

 

 しかし天主堂が建てられた1865年、浦上村から十数名の男女が「南蛮寺見学」にやってきて、そのうちの一人の女性が祈っていたプチジャン神父に近づき、「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ(私たちは皆、あなたと同じ心です)」と、キリスト教信仰をもっていることを告白したのです。彼らは江戸幕府による激しいキリシタン弾圧の中でも信仰を持ち続けた人々の子孫でした。このニュースは、プチジャン神父からローマに報告され、250年ぶりの「信徒発見」「東洋の奇蹟」として世界中に伝えられました。

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 プチジャン神父
 
 その後信徒たちは、自分たちがキリスト教信仰をもっていたことを公表し檀家を離脱するに及んで、幕府はこれを見過ごすことが出来ず、浦上村の中心人物68名を捕らえ、拷問し改宗を迫るという弾圧を始めるのです。

 幕府崩壊後、明治政府においてもこの弾圧は続き、明治維新の立役者の一人でもある木戸孝允(桂小五郎)は、「巣窟であるキリシタンの村を一掃し、住民を名古屋以西の10万石以上の諸藩に配分し、改宗させるため、藩主には生殺与奪の権限を与える」という政策を提案します。これが受け入れられ、1868年、浦上村の信徒たち3394名は根こそぎ流罪にされ、鹿児島、萩、福井、高知、名古屋など21藩22箇所で、拷問と棄教を迫られました。その結果611名が命を落とすという「浦上四番崩れ」と呼ばれる、明治政府による大迫害の記録として歴史に刻まれることになったのです。

 この事件は世界中から非難と抗議を受けました。木戸孝允自身も各国と結んだ不平等条約の改正のために、岩倉具視使節団の一員として1971年(明治4年)からアメリカとヨーロッパ諸国を訪問しましたが、キリスト信徒の弾圧を行い、信教の自由を認めない野蛮な国で近代文明国家とほど遠い国であると、行く先々で抗議を受けて条約改正どころではありませんでした。そこでついに、「流刑にした人々を開放し、信教の自由を認めなければ条約改正は期待できない」と東京に打電することになります。

 1873年(明治6年)、ついに明治政府は信徒たちの解放を決定し、キリスト教禁止令を廃止するのです。流刑によって家族はバラバラになり、重労働や改宗を迫る激しい拷問を受けながらも、大半の信徒たちは信仰を守り通しました。「改心(棄教)」して一足早く故郷に戻った者も、「改心もどし」をし、信仰を回復したといわれています。彼らは流刑された日々を「旅」と呼んで「旅の話」を子孫に語り継ぎました。

 「大浦天主堂」と言えば、キリシタン弾圧を絶え抜いて来た「信徒たちの発見」という事実だけがクローズアップされていますが、実は信徒たちの発見の後に起こった出来事と、彼らの信仰のほうがもっと大きな出来事だったのです。

 

「浦上四番崩れ」高木仙右衛門の体験談
 

高木仙右衛門
 明治政府による「浦上四番崩れ」と呼ばれる大迫害により、津和野に流刑にされ、拷問と棄教を迫られたにも関わらず、信仰を守り通した農民の一人に高木仙右衛門という人物がいます。浦上四番崩れに関する自身の津和野での体験談「仙右衛門覚書」を遺しています。この体験談の中の役人とのやり取りを読むと、信仰から出てくる「知恵」のすばらしさを感じさせ、まるで新約聖書の「使徒の働き」を読むような思いがします。


役人 「キリシタンというものは何をするか。お前たちは日本の宗旨に従うようにせよ」
仙右衛門 「信仰する者は天地の御主、御作者なる天主です。また日本の宗旨に従っているのであれば、捕らえられてこのようにここには来ておりません。」

役人 「今、お前たちは、わが親たる天子さまに従わず、異国の教えを信じ、異国の人に従うとのはどうしたことだ。あまりの我がまま、法に従わないあり方ではないか。」
仙右衛門 「私たちがキリスト教を信じているのは、異国の人に従うことではありません。また異国の人のためには信じません。ただ世界中の御主を敬うのです。この御主は、いずれの国をもかえりみてくださるお方ですから、私たちは食べる時にも天主に御礼を申し上げるのです。」
 

役人「そうであるなら、お前たちの言う天の主が、お前たちに食べ物も何もかも、直接与えてくれるのだから、食べ物が足りないなどと我々に願って言う必要はないだろう。」
仙右衛門 「私たちはそのような力のある者ではありませんので、このようにお願いに来ています。また、天主のお計らいで、天子さまから食べ物を与えられているのです。それができなければ、食べないでいます。」

 1873年2月24日、明治政府はキリシタン禁制の高札を撤去し、これにより高木仙右衛門は解放され浦上に戻りました。そして赤痢患者の救護活動、孤児救済事業、最初の浦上天主堂建設などで中心的な働きをする人物となり、75歳で天に召されています。

※役人と高木仙右衛門のやりとりの一部は、現代的表現に直しています。 

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旧浦上天主堂と石像などの遺構
 

 今日の聖書」 使徒の働き 4章13~15節


 「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
 

 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。
 



「あなたは高価で尊い」イザヤ43:1〜4  

 

 スマートフォンを使ったメールが主流の時代に、「ラブレター」などというものは流行らないのかも知れませんが、日本語文章能力検定協会の「心にひびく3行のラブレター」には、心がなごむラブレターが紹介されています。その中からいくつかをご紹介します。

 

★東京都東久留米市 中村 里沙(18才/高校生)

 どんなに想いを言葉にしても白い息とともに消えてしまう

 それならいっそ 雪になりたい

 あなたの上に舞い降りる雪になりたい

 

★兵庫県 百田 有希(17才/高校生)

 自転車のサドルを盗まれた君へ。

 もしよかったら、一生だっていい、

 僕を尻に敷いてくれませんか?

 

★大阪府 畑中 裕香(8才/小学生)

 つきあって五年だよね。

 おかあさんにおりょうりおそわってがんばるから、

 大きくなったらけっこんしようね。やくそくだよ。

 

 寸評:三歳からの付き合い。ほんとうの幼なじみですね。

 

 さらに、住友信託銀行募集の「60歳のラブレター」で金賞を受賞した 梅木 加津枝さんの (54歳)ラブレターには心を打たれます。

 

「おかえりなさい。お父さん」

 「あの時は、胸が一杯で、それに涙がこぼれそうで、その言葉が言えなかったんです。30年前の早春、結婚式を終え、一週間の新婚旅行から帰宅した翌日から連日の激務。帰りは毎晩深夜でしたね。過労死一歩手前の状態で出世階段を昇り続け、ついに社長職という夢を叶え、単身での東京暮らしが始まりました。

 

 ところが、最初に高校生の長男が、続いて二男が変わってしまい、私は成す術も知らずただおろおろと、電話口で泣いて様子を知らせるだけでした。お父さんはその後、たった一ヶ月の決断で辞表を出して私達の下へ帰って来てくれました。

 

 長年の努力の末に勝ち得たものを「社長の代わりはあっても父親の代わりはない」と手離してくれた日、私は独り号泣しました。お父さんと結婚して本当に良かった。そしてこれからも死ぬまでずーっと一緒に暮らして下さい。お願い。もう決して何処へもいかないで。」

 

 聖書は創造者である神からの私達に対するラブレターだとも言われています。その代表がイザヤ書43章4節です。

 

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」


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 私の住むマンション前には桜並木があります。引っ越した当初は春になると桜並木を通って自宅に戻ることができて喜んでいたのですがよくつまづきました。桜の木が植えられている歩道に土のスペースが少なく、水を求めて根が遠くに伸びてあちこちが盛り上がっていたからです。そこで、根上がり部分に注意をしながら歩きましたが、歩道の整備を市に要望したほうが良いのではないかと思い始めたのです。しかし一年ほど過ぎると、つまづかなくなっている自分に気づきました。知らず知らずのうちにズリ足ではなく足首のスナップを効かせる歩き方になっていたのです。

 「人は転ぶと、まず石のせいにする。石がなければ坂のせいにする。そして坂がなければ、履いている靴のせいにする。人はなかなか自分のせいにはしない」というユダヤの格言がありますが、自分が変わることによって、乗り越えられる困難もあるようです。

 現在、自宅前の歩道の地面には「根上がりがありますのでご注意ください」という大きなイラスト入りの注意書きがプリントされています。いくら歩道を整備しても水を求める桜の根はこれからも太くなり、歩道に変化を与え続けるようなので歩き方を変えるしかないようです。

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さすが弘前公園は桜の木の土のスペースがたっぷりなので歩道に根上がりはありません

「今日の聖書」コリント人への手紙第二 4章16−18節

  

 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。




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 時々見るテレビの国会中継で、国権の最高機関である国会の論戦が、議論の内容よりも攻撃的な言葉が飛び交うだけの場になり、議論の仕方を倣いたいと思えるような場にはなっていないことがあります。その原因のひとつに、本来品位を持って語るべきはずの立場の人までもが品位のかけらもないヤジを発し、ユーモアが微塵も感じられない論戦になっていることが多いからです。

 

 私自身がユーモアの大切さを教えられたのは、多くの論客が集まっている大きな会議に出席している時でした。議論が熱を帯び、対立的な空気が議場を支配しはじめた時です。老年の牧師が立って説得力に満ちた意見を出されたのです。その後議長は、同時に挙手をしていたラルフ・カックス宣教師を次の発言者に指名しました。西日本を中心に活躍されていたカックス宣教師は立って、「私の意見は先ほどの意見と同じ意見です。それを少し下手な日本語で言うつもりでした」と発言されたのです。すると議場は爆笑で包まれ、それまでの対立的な空気が一変して和やかになり、会議はスムーズに進んでいったのです。
 

 まじめに激しく議論することは決して悪いことではありません。しかし私たちの日常の生活において、そのまじめさが、ある場合には余裕を失わせ、ぎしぎしした人間関係にさせてしまうことがあります。そんな時、自分を客観化し、ユーモアを用いて議場の空気を変えてしまったあのカックス宣教師のことを、私はいつも思い出すのです。
 

ラルフ・カックス宣教師

ラルフ・カックス宣教師の生涯を記した夫人の著書


「今日の聖書」 箴言10章 12~13節

 憎しみは争いをひき起こし、愛はすべての罪をおおう。悟りのある者のくちびるには知恵があり、思慮に欠けた者の背には杖がある。
 

ハナミズキ


 多くの人に愛され、カラオケなどでもよく歌われている「ハナミズキ」という曲があります。この曲のサビの部分、「薄紅色の可愛いい君のね 果てない夢がちゃんと終わりますように 君と好きな人が百年続きますように」は、多くの人の心をつかみ、祈りにも似た思いを込めて歌う人が多いようです。しかし現実には百年続くどころか、三年も続かないケースがあり、なかなか現実は願い通りにはいきません。

 

 人が好きな人を選ぶ場合、意識的であろうがなかろうが、「やさしい」「性格が良い」「好みの外見」などの条件づけがなされています。しかし、そのように選んだはずの好きな人が、自分の選んだ条件を失ってしまったり、期待はずれであったりすると、嫌いになったり関係が崩れてしまうことがあるのです。

 

 1974年、ドラフト外で長嶋巨人軍に入団し、江川卓投手らと共に活躍した西本聖(にしもと・たかし)投手がいます。西本夫人は美人ということで有名でしたが、1981年に自宅台所のガスが爆発し大火傷を負いました。幸いにその火傷も回復し退院するとき語った言葉が新聞で紹介され大きな感動を呼びました。

 

 「退院できて何が一番うれしかったですか」という記者の問いかけに西本夫人は、大やけどで入院し、顔に包帯がぐるぐると巻かれているときに夫がやって来て、「おまえがどんなになってもオレは決して捨てない!」という言葉をかけてくれたことだと答えました。外見がどうなろうと夫は変わらずに自分を愛し続けてくれていることを知った喜びはどんなに大きかったことでしょうか。このあと西本投手は開幕投手に指名され、勝利投手となります。そのウイニングボール持って夫人の入院している病院に向かい、ボールを手渡したという感動的なエピーソードが残っています。

 

 多くの場合、好きな相手に愛される資格や価値がある場合は愛され続ける。しかしその価値が失われたとき、見向きもされなくなり、関係も続かなりやすいものです。しかし、神の愛の選びの基準は、その選ばれる者が、神の愛に値する価値をもっているかどうかという基準ではなく、神の愛による一方的な選びです。神の愛と選びは百年どころか、永遠に続くゆるぎないものです
 

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一青窈 初のフリーライブ「BESTYO Free CONCERTYO」が行われたよみうりランド

 「今日の聖書」 ローマ人への手紙 5章6〜8節
  実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

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 もう40年以上も前の話になりますが、勤務先で色々と親切にしてくださった先輩の部屋を訪ねたとき、二階の窓から外を眺めて次のようなことを話してくれました。

 かつて、愛する人と一緒になりその部屋で暮らしていたのですが、ふとしたことから喧嘩になり、売りことばに買いことばで、つい「出て行け!」と言ってしまったのです。その言葉に促されるように、彼女は早速荷物をまとめて出て行き、小さくなっていく姿をその窓からじっと見ていたというのです。

 結局は「出て行け!」という言葉がきっかけになり、二人の関係は元に戻ることはありませんでした。どうしてあの時、窓から「戻って来て!」と叫ばなかったのか悔やんでいた寂しそうな顔を今でも忘れることができません。
 

 以来、「出て行け!」のフレーズを見聞きすると、いつもその話を思い出して私自身も切ない思いになっていました。ところが、三浦綾子さんの「ナナカマドの街から」を読んでいたら、「ちいろば先生物語」の取材で愛媛県今治に出かけたときにお会いした産婦人科医師ご夫妻の若い頃の夫婦喧嘩のお話が紹介されていました。「出て行け」と言ったのか「出て行く」と言ったのか分かりませんが、とにかく奥さんが出て行くことになりました。



 
 するとご主人が次のように言いました。「お前のものは一つ残らず持って行け!」すると、奥さんも意地になって「これは私のものだから持って行きます」「あれも私のものだから持って行きます」と荷物をまとめ始めたのです。その様子をじっと見つめていたご主人が次に発した言葉は、「おい、俺もお前のものだから、俺も持って行け!」でした。このお話を聞いた三浦綾子さんは、「涙の出るほど感動した」そうです。

 
 取り返しのつかない「出て行け!」の言葉の後に、そういう「起死回生」のすばらしい言葉があったとは‥‥


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  「今日の聖書」 Ⅰコリント13章4〜9節


 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。
 愛は自慢せず、高慢になりません。

 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、

  不正を喜ばずに、真理を喜びます。

 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

 愛は決して絶えることがありません。
 預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。

 私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。 

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 現在、「ハーフ」とか「クォーター」といえば、両親や祖父母のいずれからが外国人であり、日本人離れした魅力をもった方のことをさして言われることが多いようです。しかしNHK朝の連続ドラマ「マッサン」のドラマの中でもあったように、外国人の血が流れているというだけで石を投げられたという大変な時代がありました。

 

 作家の三浦綾子さんは、その著書のひとつで旭川六条教会の牧師であった芳賀先生の子ども時代のことを記されています。当時、日本は軍国主義の時代で、人々は外国人を見ると「鬼畜米英」と目の敵にし、芳賀先生も「クォーター」であったため、外を歩くと、「アメリカ人だ、イギリス人だ」ということでいじめられ、毎日、今日は死にたい、今日は死にたいと思っていたそうです。

 

 ある日、なるべくいじめっこの出ない道を帰ろうとして歩いているときに、小学校四年くらいの生徒がワッーと一団になって集まってきて、芳賀少年をつき転ばし殴り始めというのです。その時、同じ世代の男の子が通って、「お前たち、それでも人間か」といじめていた少年たちをたしなめたのです。すると子供たちは、「だってこいつはアメリカ人ではないか」「イギリス人ではないか」「敵国人だからかまわない」と口々にその少年に向かって言い始めました。


 しかしその少年は「アメリカ人であろうと、日本人であろうと、朝鮮人であろうと、支那人であろうと、人間であることに変わりはない」と言うと、皆がシュンとしてしまいました。学校では仲間から尊敬されていた子どものようでした。

 そしていじめていた一人の男に子に、「俺の家に行って机の上に本が三冊あるから、それをすぐに持って来い」と命令しました。言われた子どもは当時人気のあった「冒険ダン吉」、「のらくろ」と、もう一冊のマンガの本を持って来ました。そしてその本をいじめられていた芳賀少年に差し出して「これをおまえにやるからな、がんばれな」と励ます 別れ際に「俺な、日曜学校に行っているんだ」と去って行ったのです。

 

 芳賀少年はその後、助けてくれた少年とはとうとう一度も会うことは出来なかったそうです。しかしこの出来事は芳賀少年のその後の生涯を左右しました。「俺な、日曜学校に行っているんだ」という言葉がヒントになり、その後教会に通うようになり、クリスチャンになり、牧師になったというのです。



「今日の聖書」ガラテヤ人への手紙 3章26~28節

 

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

 

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独立学園の書道の高校教師 桝本楳子先生
 

 百歳の高校教師「うめ子先生」は日本テレビ系列でで1984年から10年にわたって放送された人気ドキュメンタリーです。山形県小国町にある基督教独立学園高校で59才から100才まで書道教師をされていた桝本楳子(ますもと・うめこ)さんの生き方を追ったこの放送は大きな反響を呼び、多くの人に感動をもたらしました。


 


 「うめ子先生」の担当ディレクターとして10年以上も追い続けた佐々木征夫氏はその取材記録を「うめ子先生 100歳の高校教師」(日本テレビ放送網株式会社刊)という本にまとめ出版しました。映画監督の山田洋次氏は「こんな美しい日本人がいる、ということを、ぼくたちは誇りに思う」という推薦文をこの本に寄せています。

 


 佐々木征夫氏のドキュメンタリー 「うめ子先生 100歳の高校教師」は、うめ子先生のそれほど大きな変化のない日常生活を淡々と追っているように見えますが、氏の手がけたこの作品は、文化庁芸術祭賞、ドキュメンタリーの国際的な賞であるサンフランシスコ・ゴールデンゲート賞、民放祭賞、ギャラクシー賞等を受賞しています。ちなみに、NHK紅白歌合戦にも出演し話題を呼んだ沖縄県出身のテノール歌手・新垣勉さんが世に知られるきっかけとなったのも佐々木征夫氏の制作したドキュメンタリー番組です。

 

 「うめ子先生 100歳の高校教師」のドキュメンタリーから伝わって来るものは、「何をするか(What I doということ以上に、何であるか(What I am」ということのほうが、いかに生徒の心に深く刻まれていくかということです。私たちはその人の人生をはかるときに、つい「何をしたか」ということに関心が行きがちですが、実は「何であるか」ということのほうがもっと重要だといことを教えらてくれたドキュメンタリーでした。

 


コリント人への手紙第二 6章8~10節

 

 また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。



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最上のわざ

楽しい心で、年をとり
働きたいけれど休み しゃべりたいけれど黙り

失望しそうなときに希望し
従順に平静におのれの十字架をになう

 

若者が元気一杯で神の道を歩むのを見てもねたまず

人のために働くよりも 謙虚に人の世話になり

弱って、もはや人のために役立たずとも親切で柔和であること

老いの重荷は神の賜物

古びた心にこれで最後のみがきをかける

まことのふるさとへ行くためにおのれをこの世につなぐ鎖を

少しずつ外していくのは真にえらい仕事

こうして何も出来なくなればそれを謙虚に承諾するのだ

 

神は最後に一番よい仕事を残して下さる それは祈りだ

手は何も出来ないけれど最後まで合掌できる

愛するすべての人の上に神の恵みを求めるために 

すべてをなし終えたら臨終の床に神の声をきくだろう

来たれ、わが友よわれ、汝を見捨てじと

 

(ヘルマン・ホイヴェルス随筆集「人生の秋に」より)

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