私の住むマンション前には桜並木があります。引っ越した当初は春になると桜並木を通って自宅に戻ることができて喜んでいたのですがよくつまづきました。桜の木が植えられている歩道に土のスペースが少なく、水を求めて根が遠くに伸びてあちこちが盛り上がっていたからです。そこで、根上がり部分に注意をしながら歩きましたが、歩道の整備を市に要望したほうが良いのではないかと思い始めたのです。しかし一年ほど過ぎると、つまづかなくなっている自分に気づきました。知らず知らずのうちにズリ足ではなく足首のスナップを効かせる歩き方になっていたのです。
「人は転ぶと、まず石のせいにする。石がなければ坂のせいにする。そして坂がなければ、履いている靴のせいにする。人はなかなか自分のせいにはしない」というユダヤの格言がありますが、自分が変わることによって、乗り越えられる困難もあるようです。
現在、自宅前の歩道の地面には「根上がりがありますのでご注意ください」という大きなイラスト入りの注意書きがプリントされています。いくら歩道を整備しても水を求める桜の根はこれからも太くなり、歩道に変化を与え続けるようなので歩き方を変えるしかないようです。
さすが弘前公園は桜の木の土のスペースがたっぷりなので歩道に根上がりはありません
「今日の聖書」コリント人への手紙第二 4章16−18節
ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
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