いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサロニケ5章16〜18節

新しいエルサレム 天の御国

切り絵作家・澤田知子さんの聖書との出会い

 あるとき、札幌から横浜に移り住んで来られた CHIEさんは、友人の切り絵作家の原画を私に見せてくださった。黒のA4程度の大きさの用紙を精密に切り抜いた聖書を題材にした切り絵作品である。オリジナルティーにあふれた魅力ある切り絵は、そのまま画集にして出版して欲しいと思える見事なクオリティーであった。

 その切り絵を創作している澤田知子(
Tomoko Sawada )さんは全く無名で、まだ世に知られていない「普通の主婦」であるという。このような魅力ある作品がこのまま世に埋もれたままであるのは惜しすぎると、CHIEさんは横浜に移り住んだのを機会にこの切り絵作品を世に出すためのプロデュースをしたいと語ってくれた。

 しかし、大きな展覧会で受賞した経歴があり、それなりの創作活動を続けて来たアーチストの作品であるならば、プロデュースするのもそれほど難しくはないであろうが、「全く無名で普通の主婦」の切り絵作家の作品をどのようにプロデュースしたら良いのか当初は見当もつかなかった。とりあえずプロデュースをするためのBIGI ART を立ち上げ、作品を紹介するためのインスタグラムを開設し、売り込み活動を開始したのである。

kkkkk

 知り合いから出版社を紹介され、原画を持参し訪ねて作品の素晴らしさを知ってもらっても、今後の展開見据えた満足な条件は得られなかった。絵葉書程度の大きさのものを出版しても作品の魅力は伝わらず、何よりもオリジナル作品の素晴らしさを多くの人に知っていただく必要があったのである。

 しかしある日、CHIEさんから銀座教文館三階ギャラリーで切り絵作品の展覧会を開けるようになったとの連絡があった。銀座教文館といえば、銀座のど真ん中にある老舗書店であり、日本で最初のプロテスタント教会共通の讃美歌発行元である。教文館のギャラリーはあの日本の代表的影絵作家・藤城清治の展覧会も開催したことのあるギャラリーである。

 全く無名のアーチストの作品を評価し、多くの方が来場しやすい期間を確保し、よくも貸し出してくださったものだと私は驚いた。銀座といえば多くの画廊があり、多くの画家は銀座で個展を開いたということをプロフィールに載せるために使用する場所でもあるからだ。

百人隊長の信仰

 教文館がギャラリーの貸し出しに動いたのは、聖書をモチーフとした切り絵作家・澤田知子さんの作品の原画の素晴らしさと共に、CHIEさんの熱意であった。どれほどこの作品の素晴らしさを伝えることができるかは、プロデュースする人がその作品の魅力を十分に知っていることであるが、その熱意が教文館に伝わったのである。


 そしてなによりも、原画そのものを見ていただくことが、その作品のすばらしが一番伝わることになるので、プロデュースのためのスタート台に立つことができたのである。そして今 Tomoko Sawada 展」を機会に、少しずつその切り絵作品のプロデュース活動が今動き始めている。

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 切り絵作家の澤田知子さんは、北海道札幌市出身で北海道美術専門学校で美術を学び、卒業後はPOP制作に七年間携わった方である。彼女が聖書を題材にした切り絵作品創作をはじめることになったきっかけは、障害をもった息子さんの誕生を機会に息子のための療育活動に専念しはじめたことにあった。
切り絵作家澤田知子 母子

 障害を持った息子さんの療育や訓練は行って来てはいたが、一年だけでも周りの子どもたちが通う幼稚園に入れたいと思いで幼稚園を訪ねた。しかし障害を理由にどこの幼稚園も受け入れてくれなかったという。唯一キリスト教系の幼稚園があり、障害をもっていた息子さんを受け入れてくれることになった。その幼稚園は、我が子のように息子を大切にしてくれた先生と温かい保護者たちがいた幼稚園であった。そして、とても感謝な一年を過ごすことができたと彼女は語っている。

 数年後、幼稚園の息子さん担当であった先生から、ママ友であったイギリスからの宣教師が帰国したので、会いに行こうというお誘いがあった。最初はお茶会にでるつもりで出かけたがその場所は教会であった。これがきっかで澤田さんは教会に通い聖書を学ぶようになったのである。

ノアの方舟

 聖書を学びはじめた当初は、「聖書のお話は良いお話だが、自分には必要ない」と思ったそうだ。しかしその後も熱心に教会に通うようになり、気づいたら洗礼を受けていたという。「何ともあべこべな話ですが」と断り、洗礼を受けたあと、もし神様が「ほんとうにおられるなら信じることができますように」と祈ったというのである。すると、礼拝で聞くメッセージがすべて自分のことであるように聞くことができるようになっていた。

 以来、聖書に記されている様々な教え、出来事は、自分の生き方と深く関わっていることに気づき、それが彼女の切り絵作品のモチーフともなったのである。

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澤田知子さん近影
イエスとトマス
「Tomoko Sawada 展」銀座教文館三階ギャラリー 8月6日(火)〜8月18日(日)

 「今日の聖書」 詩篇 119篇65~68節 
 

 

主よ あなたはみことばのとおりに

あなたのしもべに良くしてくださいました。

良い判断と知識を私に教えてください。

私はあなたの仰せを信じています。

苦しみにあう前には 私は迷い出ていました。

しかし今は あなたのみことばを守ります。

あなたは いつくしみ深く

良くしてくださるお方です。

どうか あなたのおきてを私に教えてください。


kkkkk

銀座・教文館と「Tomoko Sawada展」の裏エピソード


 銀座のど真ん中にある教文館は、アメリカから派遣されたメソジストの宣教師たちが、伝道用の書籍やトラクトを販売したり出版するために東京築地で開催された年会で組織を結成したときに産声をあげています。1885年(明治18年)9月9日のことで、これが教文館誕生の日となりました。ちなみに青山学院も教文館を立ち上げたメソジストの宣教師たちによって創設されています。

 その後、書店を東京、長崎、横浜に開きますが、家賃が高くて長くは続かず閉鎖になるのですが、1891年に、東京銀座に書店を開店し、現在に至るまで銀座の老舗書店・出版社として知られ、多くの人々に親しまれて来ました。

 そして1906年(明治39年)には、四階建ての瀟洒なビル(下写真)を現在地に建てたのがはじめての自前ビルになり、現在の教文館ビルは1933年(昭和8年)に竣工となっています。当時の写真を見ると九階建ての教文館ビルの周りには、ほとんど高いビルがないので飛び抜けて目立つ建物として銀座四丁目にそびえ立っています。

 銀座四丁目交差点と言えば服部時計店や三愛ビルが銀座のシンボルとなっていますが、現在地に教文館が建てられた時の住所は銀座四丁目一番地(現在は五番地)で、三越や松坂屋が銀座進出以前ですから、教文館は銀座のど真ん中に130年以上存在していることになり、銀座の移り変わり史の目撃者的な存在です。

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 その銀座教文館三階ギャラリーにおいて、86日(火)から818日(日)まで、「Tomoko Sawada 展」が開催されています。銀座ど真ん中の教文館三階ギャラリーで開催されている切り絵作家の澤田知子(Tomoko Sawada)さんは、全国的に見るなら無名の作家ですが、「Tomoko Sawada 」で、澤田知子さんの作品を見たなら、この作家がなぜ無名であるのか信じられないほどの素晴らしい作品が展示されています。


 この澤田知子さんの作品をプロデュースしているのが、BIGI ART(ビギアート)の代表の MIURA CHIE さんです。澤田知子さんとは、北海道札幌にある厚別福音キリスト教会の教会員でしたが、CHIE さんは澤田知子さんの切り絵作品に接したとき、その切り絵作品の素晴らしさ、クオリティーの高さ、オリジナリティーに感動して、どうしてこの方の作品が世に知られないままでいるのかと不思議に思ったそうです。


 Tomoko Sawadaの作品が世に知られない理由の一つに、澤田知子さんのお子様に障害があり、お子様の療育に専念されていたことにあります。そして、39歳の時にイエス・キリストに出会い、療育のかたわら聖書の物語を切り絵で表現するようになります。そして創作された切り絵を描きためて、その作品の一部が「Tomoko Sawada 」に展示されているのです。

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 同じ教会の会員であった CHIE さんは、横浜に居を移したとき、何としても、澤田知子さんの切り絵作品が埋もれたままであってはならないという強い思いから、BIGI ARTを立ち上げ、プロデュースすることにしたのです。そのための様々なプロデュース活動を始めたのですが、その一つが教文館への売り込みでした。

 教文館では、澤田知子さんの切り絵作品の素晴らしさとともに、澤田知子さんの作品に惚れ込み、何としてでもこのアーチストの作品を世に出したいというCHIEさん の熱意に動かされ、全国的にほぼ無名のアーチストの作品を一番人が集まりやすい期間に銀座教文館三階ギャラリーでの開催をバックアップしています。全国的には無名の作家の作品の価値を認め、教文館ギャラリーでの開催を後押している銀座・教文館の英断もさすがと思わされますが、これまで埋もれていた素晴らしい切り絵作品が、さらに多くの人に知られ、その活躍の場が広がっていくことを心から願っています。

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 「今日の聖書」 マタイの福音書 13章44~46節 
 

 

 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。

 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。


じょっぱり 王林

青森県「もったら殺すな運動」のすごさ


 「バカ塗りの娘」に続いて、青森県を舞台にした映画「じょっぱり」が公開されました。主人公の花田ミキさんは、弘前女学校で学びを終えた後、自立した女性としての生き方を目指し看護の道に進んだ女性です。

 

 まだワクチンのない時代に八戸市内で発生したポリオ(小児麻痺)の集団感染が起こった際、八戸赤十字病院の担当医からの要請を受けて治療法を求めて上京し、日赤を通じてGHQに出向き、オーストラリアで治療効果を上げていた「ケニー療法」の資料を入手します。そして八戸赤十字病院に戻り、毎日ケニー療法を続けます。治療効果が上げると、今度は一般向けにこの療法をわかりやすく紹介するために新聞記事でケニー療法紹介し、この療法を広めていったのです。



 この映画の芯となっているのが、彼女が青森県庁初の衛生部看護係の係長として取り組んだもったら殺すな運動」です。「もったら」とは、青森県の方言で妊娠したらの意味で、全国最悪の青森県の乳児死亡率の改善のために掲げられた標語です。そして地域の住民の意識改革に取り組んだだけではなく、僻地に保健婦を送るために、男性中心で旧態依然であった県庁を動かし、「派遣保健婦制度」を導入し、全町村の半分以下の保健婦不在から、保健婦不在が皆無となったという実績を残しました。

 

 男社会の中で女性として、経済問題をはじめ課題の多かった青森県の保健衛生状況を改善していくことは当時としては大変なことだったでしょう。しかし、青森県知事など志のある人々の協力を得ながら、看護師を社会的に専門職として認められるために、青森県立高等看護学院(現在の青森県立保健大学)の開校に尽力したことなどをみても彼女の功績はもっと多くの人に知られるべきだと思います。

 花田ミキさんは、死後、自分の遺体を医学生のために献体していますが、その申請書類に「弘前大学白菊会」とありました。この「弘前大学白菊会」の設立に尽力したのが、弘前大学の医学部教授であった河西達夫先生です。河西先生はすでに召天されていますが、生前親しくお交わりし、その設立時のご苦労を直接伺っていたので、そのシーンは私にとっては特別な感慨がありました。

「じょっぱり」宣伝映像

 映画「じょっぱり」で、青森県の保健衛生の分野で大きな功績を残した女性をどのような切り口で紹介するのかと興味がありましたが、映画では老年の花田ミキが偏屈な女性(木野花)として描かれ、十代でシングルマザーとなった小泉ちさと(王林)との関係づくりから始まり、コミカルで明るいタッチで物語が展開していくので、私が抱いていた映画の予想を良い意味で裏切りました。さらに回想という形で花田ミキの生涯が描かれ、かけがえのないいのちを守るために彼女の残した功績を知ることができる物語の展開となっています。

 キャストは、主人公の花田ミキにベテラン女優の木野花さん、さらに青森県出身の人気タレント王林さんをシングルマザーの小泉ちさと役として登場させていので、最初は話題づくりのキャストかと思いましたが、五十嵐匠監督は、単なる話題づくりの配役ではなく、「もったら殺すな運動」の今日的メッセージを伝える役割としてシングルマザーの小泉ちさとを映画「じょっぱり」の中に登場させているのです。

 この映画を見た若い方々の『X(ツイッター)』の書き込みを見ると、この二人の会話のシーンで多くの方々が涙したと書き込んでいます。多くの方々に見ていただきたい、すばらしい映画なのですが、上映館が圧倒的に少ないのがとても残念です。

木野花と王林

 今日の聖書」 コリント人への手紙第一 3章12~13節 
 

 

 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」


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津軽塗のすばらしさに気づかせてくれる
映画「バカ塗りの娘」

 8月に弘前市土手町にある「津軽塗たなか」で津軽塗の箸を購入したとき、レジのところで弘前市を舞台にした映画「バカ塗りの娘」の映画チラシを目にしました。伝統工芸「津軽塗」は漆塗りを「何十回もバカ丁寧に塗りを繰り返す技法」であるところから「バカ塗り」とも言われています。津軽塗りは以前から興味があったことと、弘前市が舞台ということでぜひ観てみたいと思っておりましたが、9月1日に遂に全国でも封切りになりました。

 冒頭から津軽塗りの色づくりのシーンがあり、まるでドキュメンタリー映画のように、津軽塗の製作シーンが丁寧に数多く出て来るので、思わず見入ってしまいます。さらに、主人公の堀田真由さんや父親役の小林 薫さん、おばあさん役の木野 花さんの演技も自然で役にはまっているので、弘前市に実在している人のように見えて来ます。

 父親の清司郎の漆工房には、実際の津軽塗職人、松山継道さんが長年作業されていた漆工房をそのままま借りて撮影しているので、セットとは違う実際の職人の現場の息遣いを感じさせてくれる作品になっています。映画プロデューサーの説明では、「漆塗りの道具や漆を完成させる漆風呂はもちろん、床や壁、天井に至るまで、漆と時間の染み込んだ様子は、まるでひとつの作品のような、圧倒的な存在感がありました」と語っていますが、画面を見ていてもその津軽塗りの制作現場がリアルで飽きない理由は、そこにもあったのかと思います。

 伝統的な津軽塗りも需要の減少で津軽塗職人が激減していると言われていますが、最後のシーンは、津軽塗の魅力が世界に広がっていくかも知れないと予感させるものでした。観終わったあとは、津軽塗りの箸だけではなく、もっと手間をかけている高価な津軽塗りの作品が欲しいと思ったのは私だけでしょうか。時代が移り変わっても、ぜひとも残しておきたい伝統技術のすばらしさに気づかせてくれ映画です。

「バカ塗りの娘」予告
今日の聖書 マタイの福音書9章16~17節

  だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」


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「青森ねぶた祭2023」開催ニュースで思うこと

 コロナ禍で中止や制約のあった「青森ねぶた祭」が四年ぶりに以前のねぶた祭に戻り、大きなニュースになりましたが、その青森ねぶた祭で運行関係者がねぶたの台車の
曳手に暴力をふるったという動画が拡散され、さらに大きなニュースとなりました。

 ニュースでは、「うちわを持つ手を振り回し、ねぷたを引く曳く人たちを次々に殴り始めたのです」とあり、実際に殴ったかどうかは遠目なの不明なのですが、うちわではなく素手で殴った手がまともに当たっていればノックアウトパンチのような勢いで腕を振り回していたので、この動画を見た青森ねぶた祭を愛する人々に大きなショックを与えています。私自身も青森ねぶた祭観覧で見るはじめての光景で大変驚きました。

 私は別の目的もあって弘前に出かけたのですが、翌日の8月2日が「青森ねぶた祭」初日であるということで最新カメラを持参し、四年ぶりにねぶた祭を撮影することができました。問題になった青森青年会議所のねぶたも撮影いたしましたが、迫力のあるすばらしいものでした。制作したねぶた師の方もこの出来事に大きなショックを受けたことでしょう。

 当初のニュースではねぶたが特定されないようにぼかしが入れられて報道されていたのでとてもお気の毒でした。暴力をふるった運行スタッフのおかげで、ねぶたグループ全体が全否定されるだけではなく、青森ねぶた祭そのものが問題あるかのような印象が広がることが懸念しておられる方が大勢おられます。青年会議所のねぶたはお囃子を含め、全体としてはまとめまりのある魅力的なグループだったので、かなりの枚数を撮影したのでとても残念に思っています。
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 ねぶたは、ねぶた師の描いた下絵に基づいて、ねぶた小屋で数ヶ月かけて制作されます。製作中は非公開で関係者以外は見ることができません。出来上がったねぶたを台車に載せ、完成したねぶたを台車のまわりで押したり引いたりするのが「曳手」の役割です。ただ台車を押したり引いたりするのではなく、上下に動かしたり回ったりして生き物のように動かすのも「曳手」の役割です。そして曳手」をオーケストラの指揮者のように指揮するのが「扇子持ち」の役割です。扇子持ちと曳手の息が合ったときに、ねぶたは生き物のように町を練り歩くのです。曳手が扇子ではなく実際の手で暴力を振るうのは昔はあったのかも知れませんが、今では完全にアウトで、多くの観覧者に感動ではなく恐怖と不快感を与えてしまいます。

 8月2日のねぷた祭りでも、ねぷたの大小に関係はなく、目の前で一生懸命動かしてくれたねぷたには観客から拍手が沸き起こるのです。最初の写真にあるように、観客の多くの視線はねぶたそのものに向いていますので、曳手」はあまり見えないのです。しかし、見えない陰の部分での真剣な働きがあってこそねぶたそのものが生き物のように動くのですから、これからも「扇子持ち」と曳手」が良いコンビネーションですばらし青森ねぶた祭を見せてくれるよう心から願っています。
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ねぶたの太鼓の音は心地のよいものです
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お囃子

今日の聖書 コロサイ人への手紙3章12~14節

 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。



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「四つ葉のクローバー」の見つけ方


 幸運や幸福のシンボルの「四つ葉のクローバー」を「三つ葉のクローバー」の中から探すという行為は、誰でも一度はやってみた行為ではないでしょうか。しかし、そうそう簡単に四つ葉のクローバーを見つけることはできません。

 実は私自身も子どもの頃から道端にあるクローバーを見て、四つ葉のクローバー探しをしていましたが、一度も見つけることができませんでした。2013年に弘前市に住むようなって、弘前公園に毎朝ウォーキングに出かけるようになって、公園内のたくさんのクローバーを見て、再び挑戦したのですが、一度も見つけることができませんでした。

 ところがある日、公園内で販売されていた「カランカランアイス」を買ったとき、売り子のおばさんから、四つ葉のクローバーをプレゼントされたのです。貴重なものなのでもらうのをためらっていたら、自分は簡単に公園内で見つけることができるので、もらってくださいということで、ありがたく「四つ葉のクローバー」をもらいました。


 それ以来、公園内には四つ葉のクローバーは必ずあると信じて探してみると、次々に四つ葉のクローバーを探し出すことができたのです。よくSNSなどで、違った漢字が一つありますというクイズを見かけますが、試しても全部同じ漢字のように見えます。しかし、それは錯覚で一字一字確かめると、実は違った漢字が必ず一つあることに気づきます。それと同じことがクローバーでも言えるようで、かなりの確率で四つ葉のクローバーがまぎれていることが多いようです。一度見つけると、次々に見つけることができます。冒頭の写真の中にも四つ葉のクローバーが隠れていますので、ぜひチャレンジしてみてください。

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 「四つ葉のクローバー」が幸運や幸福のシンボルとして覚えられるようになったのは、アイルランドにキリスト教を伝えたパトリックに由来していると言われています。パトリックはアイルランドの国花となっているクローバーを用いて、コリント人への第一の手紙1313節にある「いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。そのうちいちばんすぐれているのは愛です」という真理を教えました。そして四つ葉はその中心が十字架になっていることから、十字架につけられたキリストを覚えるものとして教えたようです。

 十字架は本来、重罪を犯した者への処刑方法でしたが、罪のないイエス・キリストが十字架につけられ、殺されることによって、人間の罪があがなわれ、救いの道が開かれたことから「神の愛」の象徴として覚えられるようになりました。ですから、三つ葉は「信仰、希望、愛」四つ葉は「十字架の神の愛」と教えられると、私は不思議に納得します。

 ちなみ私はその後、弘前公園でたくさんの四つ葉のクローバーを発見し、観光客にプレゼントしたときには大いに喜ばれました。



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今日の聖書』 コリント人への手紙 13章 13節

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。
その中で一番すぐれているのは愛です。

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 英連邦戦死者墓地」
Yokohama War Cemetery

 横浜永谷キリスト教会に赴任して間も無くの頃、教会から車で10分ほどの距離にエリザベス女王やダイアナ元妃も墓参したという「英連邦戦死者墓地Yokohama War Cemetery」があることを教えていただきました。すぐそばにバラ園もあり、近隣の方々がよく訪れている写真撮影スポットでもあるということなので、一度訪れてみたいと思っておりましたが、昨日ついにここを訪れることができました。

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 場所は、箱根マラソンで有名な国道一号「団子坂」に近く、バス停「児童遊園地入口」から歩いて10分ほどの距離にあります。1946年に保土ヶ谷児童遊園地・保土ヶ谷錬成場が接収され作られたということもあり、現在も横浜市の児童遊園地やバラ園のあるこども植物園が隣接しています。

 「英連邦墓地」とあるのは、この墓地が設置された1955年当時のイギリス連邦諸国(イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国、インド、パキスタン)の戦死者1,500基以上の墓碑が建立されているからです。英連邦では、「戦死者の遺体は本国に送還せず、階級差なく現地で埋葬する」という原則があり、この方針のもとに「英連邦戦死者墓地委員会」が設置され、世界中にある英連邦戦死者の墓地を管理しています。保土ヶ谷にある「英連邦戦死者墓地」もその一つであるということになります。

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 ただ、「戦死者」となってはいても、ここに葬られている方々は戦いの中でなくなったというより、日本軍の捕虜となった兵士や女性たちが労働力として日本に連行され、鉱山や造船所、農業や軍需製品の様々な産業で働かされた人々がほとんどです。その収容所の劣悪な環境の中で捕虜という身分のままで何千人もの人々が亡くなったのです。入口を入ってすぐの場所にある英語と日本語で書かれている「
英連邦戦死者墓地」の説明文にはこのことも記されており、これを読んだ時には心が痛みました。

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 この墓地にはヨハネの福音書11章の主イエスの「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」というみことばが記され、「あなたの御手に彼の霊をゆだねます」という家族の祈りのことばが添えられていました。

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隣接する植物園に咲いていたバラが美しかった




今日の聖書』 イザヤ書 2章2〜4節

終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、
もろもろの丘より高くそびえ立つ。

そこにすべての国々が流れて来る。多くの民族が来て言う。

「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。
主はご自分の道を私たちに教えてくださる。

私たちはその道筋を進もう。」

それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。

主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。

彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。

国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。

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平戸永谷川の河津桜

 横浜永谷キリスト教会の会堂の横を流れているのは「平戸永谷川」です。この川沿いの道路は、「平戸永谷川プロムナード」と名付けられ、多くの方々の散歩コースになっています。特に愛犬をともなって散歩をしている方々が大勢おられ、同じ時間に散歩をされているせいか、顔見知りになって愛犬ともどもに会話をしている様子をしばしば見かけます。

 ところが、桜が開花し始めた頃は、単独で散歩する方々を多く見かけ、スマホを片手にしてプロムナード沿いの河津桜を撮影している方が多くおられました。特に満開になった3月5日前後は、お天気が良かったせいか、大勢の方々がスマホで満開の桜を撮影していました。

 河津桜はソメイヨシノに比べると色が濃いので、満開になるとプロムナードが華やかに彩られているという印象を受けます。まるで美しいモデルのように、カメラマンにその華やかな表情を見せつけています。

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 平戸永谷川の「河津桜」背景は横浜永谷キリスト教会
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平戸永谷川の「河津桜」
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平戸永谷川の「河津桜」

『今日の聖書』 雅歌 2章11~13節

  ご覧、冬は去り、雨も過ぎて行ったから。

  地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、

  山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。

  いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香りを放つ。

  わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。

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山下公園
 

山下公園は関東大震災の瓦礫の上に

 
 「横浜山下公園」といえば、都会のオアシスのような存在です。晴れた日に公園のベンチに座り海を眺めていると都会の喧噪を忘れさせてくれるので多くの人がそこに集うのです。ところが、この山下公園が関東大震災の瓦礫を埋め立てて出来た公園であるということは案外知られていません。


 1923年9月1日に相模湾沖を震源として発生したマグニチュード7.9の関東大震災は、神奈川県や東京を中心に甚大な被害をもたらしました。

 当初、波止場の一角が大震災の瓦礫の集積場となっていました。その後、関東大震災の復興事業として瓦礫などを使って海を埋め立て、臨海公園にしようということで1925年から工事が始まり、1935年3月15日から開園されたのが山下公園です。1934年には山下公園内で「復興記念横浜大博覧会」が開催されています。

 関東大震災は、190万人が被災し10万人以上の死者・行方不明者を出した悲しい記憶です。しかし、その瓦礫によって作られた山下公園が現在、都会のオアシスとなっていることは、イザヤ書の言葉を思い起こさせます。

  「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる

 現在ここを訪れるほとんどの人は、それを知らず、
関東大震災の体験も持っていません。現在の山下公園を訪れる利用の仕方を考えると、あえてそのことを知らせる必要がないのかも知れません。

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 山下公園の良さは、上の写真にあるように、海が見るように並べられてベンチが多いことです。休日はほとんどのベンチが埋まってことが多いのですが、長く滞在するわけではないので、少し待つとここに座ることができます。それと頻繁に花壇が手入れされているので、美しく咲いている花をいつも見ることができるのです。

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 以前に比べると、湾内の海もかなりきれいになりました。ところどころにゴミが漂っているろこともありますが、水質もそれほど濁ったようには見えません。意外と横浜湾の水はきれいなのです。

 田舎から出て来て都会で生活するようになり、時間が経つにつれ、都会の生活に息苦しさを覚えるのは、故郷にあった山や海を見ることができなくなったからだと言われます。ですから、私の場合も海が見える場所に住んでいたので、山下公園に来てベンチに座り、海を見ているだけでいやされる思いがします。

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横浜山下公園に係留されている氷川丸

今日の聖書」 イザヤ書 35章1~3節

 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。

あじさいの庭完成予想図

目指せ!「紫陽花いっぱいの庭」

 紫陽花が植えられた横浜永谷キリスト教会の写真ですが、この写真は紫陽花がいっぱいの庭を目指している横浜永谷キリスト教会の花壇「完成予想写真」です。もちろんPhotoshopによる加工写真です。

 横浜永谷キリスト教会は毎年6月になると、地域の方々を教会にお招きする「紫陽花オープンチャーチ」を行なっていました。開拓期に奉仕したドイツ人宣教師の発案で、日本のじめじめした梅雨の季節に楽しいイベントを教会で行いたいということで始まったイベントです。

 私が横浜永谷キリスト教会の牧師として招かれる際に、横浜永谷キリスト教会の方々は教会名を「あじさい教会」にしたいぐらい紫陽花が好きな人が多い聞かされました。そこで、「紫陽花」の花言葉を調べてみると、土壌によって色が変わることから「移り気」、ピンクの紫陽花は「元気な女性」、青色の紫陽花は「辛抱強い愛」などとありまし。しかし、教会としていちばんぴったりだったのは、小さな花びらが集まっている様子から「家族の団らん」という花言葉です。

 聖書には教会は「神の家族」(エペソ2章19節)にたとえられています。ユダヤ人も異邦人もなく、教会は「神の家族」であるというのは、すばらいことです。しかも国籍は天国です。
「家族の団らん」は、教会の兄弟姉妹が神の家族として愛し合うこと様子を言い表している花言葉です。

 そういうわけで、地域の方々に神の家族に加わっていただきたいという願いを込めて、教会の庭を紫陽花でいっぱいにしようということになり、今年の4月、ばらばらに植えられていた紫陽花を道路側に一列に植え替え、新しい紫陽花の苗も加えした。

 5月末に早咲きの紫陽花が咲き始めましたが、少し年月がかかるようで、どうも完成予想写真のようには現在なっていません。しかし、美しく咲き始めた紫陽花を見て、兄弟姉妹は喜び、さらなる開花を待ち望んでいます。

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2022年5月26日現在の教会の庭 美しく咲いている
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これから開花するのが期待されている紫陽花
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大きくなるまでは時間がかかりそうな紫陽花
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4月に植え替えた時の庭

「今日の聖書」 エペソ2章14~19節

 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

 また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。

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横浜公園はチューリップでいっぱい

 横浜スタジアムの敷地内にある横浜公園(横浜市中区)は、12万本のチューリップの花が今咲き誇っています。このブログにあるチューリップは4月5日撮影したものですが、4月8日からは、「第44回よこはま花と緑のスプリングフェア2022」が開催されるとのこと。一足先に写真をアップしました。

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『今日の聖書』 雅歌 2章11~13節

  ご覧、冬は去り、雨も過ぎて行ったから。

  地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、

  山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。

  いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香りを放つ。

  わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。

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弘前公園のマンサクの花が咲いたニュース

 3月12日、弘前公園北の廓にあるマンサクの花が開花したというニュースが東奥日報の電子版に掲載されていました。昨年の開花日は、3月7日でしたから、今年は5日遅く咲いたことになります。近年、温暖化の影響で開花日が早まる傾向があったので、マンサクの開花日が平均開花日に近づいたということになります。

 弘前公園のマンサクの開花日がニュースになるのは、このマンサクのそばに、ソメイヨシノの標準木があるからです。毎年、マンサクが咲いた約40日後に標準木のソメイヨシノが開花することが弘前市民には知られています。これで行くと、今年の年の開花予想日は4月19日になります。弘前公園発表の2022年開花予想日は4月18日ですから、ほぼマンサクの開花日から約40日後になるわけです

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 このブログにアップされているマンサクは、弘前公園北の廓に植えられているそのマンサクの木で、私が撮影したものです。弘前に住んでいたとき、毎朝のように弘前公園までウォーキングしていた私は、この時期はいつもマンサクの開花が気になっていました。この写真は、報道があった日の夜に弘前公園北の廓に入って撮影したと記憶しています。

 私がマンサクの開花日とソメイヨシノの開花予想が関連づけて報道されることに注目しているもう一つの理由があります。新約聖書を読んだ方であるならば、気づいていることなのですが、イエス・キリストの公生涯を記している福音書の記事は、バプテスマのヨハネの活動から始まっていることです。

 旧約聖書イザヤ書の預言を引用し、荒野に現れたバプテスマのヨハネが「私よりも力のある方が私の後に来られます」と、キリストの到来を宣べ伝えはじめるのです。引用されたイザヤ書の預言は以下のようになっています。

 「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの目に遣わす。

  彼はあなたの道を整える。

  荒野で叫ぶ者の声がする。

 『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』

  (マルコの福音書1章2~3節)

 教会暦では、今はキリストの受難を覚えるレント(受難節)です。レントは「灰の水曜日」から日曜日を除く、キリストの復活を記念するイースターまでの40日間の季節をいいます。この期間、世界中のクリスチャンは、私たちの救いのために苦しみを受けられたイエス・キリストの苦難と神の愛を覚えるときとして過ごします。

 マンサクの開花とソメイヨシノの開花が毎年関連づけられているように、私はバプテスマのヨハネの出現とイエス・キリストの公生涯が結びつけられていることと毎年のように思い起こしてこの季節を過ごしています。(岩松康宣)

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『今日の聖書』 ヨハネの福音書 1章14~16節

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とばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。


 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」


 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

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教会の庭の梅が咲きました

 横浜永谷キリスト教会の庭にある梅の木は、ここに会堂が建つ前から植わっていたものです。昨年七月、私が牧師として赴任してきた時にはすでに梅の季節が終わっていたため、梅の花を見ることはできませんでした。しかし、今朝教会に来た時には梅の花が枝という枝に綺麗に咲き誇っていました。

 これまでは教会の庭にある梅の木は、老木で枯れ木のような存在でしたので、これほど見事に梅の花が咲き誇ることは想像できませんでした。そこで早速カメラを持ち出し撮影したのが、今回アップした写真です。


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 ふと、弘前に住んでいたときに見た弘前公園の桜の木を思い出しました。一般的に、ソメイヨシノは樹齢が60年ほどであると見なされていますが、弘前公園の桜は樹齢百年を超えるものも三百本以上も植えられています。ほとんどが老木なのですが、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも取り上げられたことがある弘前公園の樹木医であった小林勝さんは、「老木こそ美しい」というコンセプトのもとに桜を手入れをし、毎年見事な桜の花を咲かせていました。

 私は、「老木なのに美しい」ではなく、「老木こそ美しい」という小林勝さんの言葉が大好きです。
枯れ木にも見える古木が、毎年春になると美しい花を咲かせると、若い木の枝に咲く花とは違う、別の美しさを感じさせるからです。横浜永谷キリスト教会の庭に植えられている老木の梅の木も、これからも美しい花びらを咲かせ続けてほしいと願っています。

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横浜永谷キリスト教会の庭に咲いた梅の花

「今日の聖書」雅歌 2章11〜12節


ご覧、冬は去り、 雨も過ぎて行ったから。

地には花が咲き乱れ、 刈り入れの季節がやって来て、 山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。


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弘前大学名誉教授 河西達夫先生

人間のいのちの尊厳を知らなくては
良い医者になれない

 弘前大学名誉教授の河西達夫先生は、弘前大学医学部の教授として千体以上の解剖に立ち会い、学生に解剖学を教えてこられた方です。数年前に出版された「解剖学実習アトラス」は全国の医学部の解剖学教科書として用いられています。人体の臓器の精密なイラストは、まるで本職のイラストレーターが描いたかのような仕上がりになっていますが、お聞きすると河西先生ご自身が描かれたものとのことです。

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 以前、弘前福音キリスト教会で、「献体について考える」というテーマでお話していただきました。解剖を行うとき学生たちに特に指導したことは、「人間のいのちの尊厳を知らなくては  良い医者になれない」ということです。「動物ではなく人体を解剖することで、生命の尊厳を知り、医師としての責任感が身につくというのです。そのために、人体の取り扱いには非常に厳しかったといいます。

 河西達夫先生と恵子夫人は熱心なクリスチャンですが、新婚の頃、解剖の実習を終えて戻ってこられた夫の解剖着を洗濯するのが喜びだったと話されていました。普通の女性であったならば、あまり喜びとは感じないはずの解剖着の洗濯を、大きな喜びと感じているところに、献体をされた方々への感謝と夫の仕事への深い理解があったことを覚え大変感動しました。 

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イラストも河西先生によるもの

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河西達夫先生と恵子夫人 (青森県「鶴の舞橋」)


 
「今日の聖書」 詩篇139篇13~16節


 それはあなたが私の内臓を造り、

 母の胎のうちで私を組み立てられたからです。 

 私は感謝します。

 あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。

 私のたましいは、それをよく知っています。

 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、

 私の骨組みはあなたに隠れていませんでした。

 あなたの目は胎児の私を見られ、

 あなたの書物にすべてが書き記されました。
 わたしのために 
作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。


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「クリスマス・ツリー」の起源

 アドベントの季節が近づくと大きなモールなどに「クリスマス・ツリー」が飾られ、人々の目を楽しませます。しかし、クリスマス・ツリーそのものは、起源からいえばクリスマスとは無関係で、古代ゲルマン民族の当時の祭りである「ユール」の飾られていた「樫の木」であるとされています。

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 そして、ドイツ民族がキリスト教に改宗した時期に、これまで祝っていた「ユール」の祭りでで用いられいた樫の木を同じ常緑樹の「モミの木」に変え、新たなキリスト教的な意味付けをして飾られたのが「クリスマス・ツリー」です。

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 まず、もみの木のてっぺんには、博士たちを導いた「ベツレヘムの星」が飾られ、横から見ると三角形なので父なる神・子なるキリスト・聖霊なる神の「三位一体(さんみいったい)」を表すとされています。また、クリスマカラーの「赤」は、キリストの十字架の上で流された血から「愛」を表し、「緑」は「永遠のいのち」、白はキリストの血潮によって罪がきよめられた「純潔」を意味するとされています。これは玄関などに飾られるリースに用いられる際の色の意味も同じです。

 

 写真は、横浜みなとみらい地区に飾られている「「クリスマス・ツリー」で、「Tha Landmark Christmas」として飾らています。

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「今日の聖書」ヨハネの福音書1章9〜14節


 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

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モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー

彫刻家は、物の形に、詩人は言葉に、音楽家は音に魅せられた人である。」(ジョアン・ミロ)

 ジョアン・ミロはスペインのカタロニア出身で、大阪万博にも出品したことがある画家です。ジョアン・ミロと同じくカタロニア出身の芸術家には、「サグラダ・ファミリア」で知られているアントニ・ガウディやダリがいます。いずれもその作品はユニークで、作者の個性を感じさせる印象的なものです。

 横浜みなとみらい地区のランドマークタワーのそばにある、この写真のモニュメントもユニークさと印象的な点では負けてはいません。「みなとみらいは地区」は、休みの日にはたびた訪れ場所ですが、カメラをもっているとつい撮影したくなるモニュメントです。背景にあるランドマークタワーを入れて撮影すると、かなり表情の違った写真になるので、同じモチーフで何度か撮影いたしました。

 このモニュメントは、元武蔵野美術大学教授で彫刻家の最上壽之(もがみ ひさゆき)氏の作品です。そして作品名もユニークです。

  モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー

 この「モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー」に関しては、芸術的な役割だけではなく、高層ビルの間を吹き抜ける風の威力を1-2割弱めるという実際的な役割もあるとのことです。

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「今日の聖書」 ヨブ記14章15節

 あなたが呼んでくだされば、私は答えます。あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう。 

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自分の近くにいる人を愛せないとき

 千葉県のある教会の礼拝に出席した時のことです。ひとりのご婦人が立って自分がクリスチャンになるきっかけとなった出来事をお話してくださいました。

 結婚して最初は夫婦二人での生活を始めたのですが、ご主人のご両親が年老いて来たことを理由に一緒に暮らすようになりました。ご両親は一日中テレビにかじりつきリビングを占領するようになり、今まで自由にふるまえた家での生活が不自由なものとなり、そのうちにご両親を憎んでいる自分に気付がついたのです。彼女は自分のいちばん近くにいる人を愛せないでいることに苦しみました。

 そのころ教会に通い始めていたので、聖書を開くと 「すべて疲れて重荷を負っている者はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」というキリストの言葉が目に飛び込んできたのです。そのお言葉の通りに、主イエスのもとに自分の重荷を下ろしたときに、両親に対する自分の見方が変わりました。

 両親を憎んでいる自分のような者のためにも主イエスが十字架にかかって、愛を示してくださったこともわかったというのです。全く重荷や問題が無くなったわけではないけれども、今までのように耐えられない重荷では無くなって、自分の近くにいる人を愛せないという大きな苦しみからも解放されたそうです。

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今日の聖書 エペソ4章32節

 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 

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ナザレ受胎告知教会の「華の聖母子」

華の聖母子 
マリヤの着物の袖をよくみると真珠がはめられいる(拡大)
 
日本人が描いた「マリヤとイエス」

 イエス・キリストの故郷ナザレには、乙女マリヤが天使から受胎告知を受けたという洞窟の上に建てられた「受胎告知教会」があります。この会堂の中には日本人の画家長谷川路可の下絵による「華の聖母子」が展示されています。

 この絵の下絵を描いた段階で長谷川路可は天に召され、弟子たちがその下絵をもとにヴェネツィアの工房を借りて制作し、分割し船便で運んだものをイスラエルの職人たちがこの教会の壁面に貼り付け完成させました。

 イスラエル旅行でこの絵を見た時には、かなり目立つ位置に展示されていたことと、その大きさと、いかにも日本人的な母子像になっているのを見て驚きました。受胎告知教会には、日本だけではなく、世界各国の「マリヤと幼子イエス」の絵が展示されています。

 ギリシャのものはまるでイコンの絵のように伝統的なものになっていましたが、タイや韓国のものは日本と同じく民族衣装をまとっているので、これまでのマリヤと幼子イエスのイメージを覆すものになっています。

 それまで、欧米人の描いたマリヤとイエスは金髪になっているのを見て、白人中心のイエス像だと思っていましたが、日本人の描いたきわめて日本的な聖母子の絵を見ているうち、世界の救い主である主イエスが、それぞれの国の人々のイエス像で描かれることは、何も不思議なことではないと思うようになりました。

 なお長谷川路可は、長崎で殉教した二十六聖人の「三木パウロ」の絵も描いています。雅号の「路可」はカトリックに入信した時の洗礼名が「ルカ」からのもので、本名は「龍三」です。日本におけるフレスコ画やモザイク壁画のパイオニアとしても知られ、長崎にある日本二十六聖人記念館には、二十六聖人の長崎までの旅を描いた「長崎への道」のフレスコ画が展示されています(下の写真)。

長谷川路可「長崎への路」
長谷川路可「長崎への道」日本二十六聖人記念館所蔵(フレスコ画)

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ナザレ「受胎告知教会」
受胎告知教会内部
ナザレ「受胎告知教会」内部(1994年撮影)

今日の聖書」 ルカの福音書 1章26~33節 
 

 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。


 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

淵田美津雄

真珠湾攻撃 淵田美津雄総指揮官の回心

 ハワイの真珠湾攻撃の総指揮官であった淵田美津雄さんの回心の記録「真珠湾からゴルゴタへ」を昨日の弘前福音キリスト教会壮年会で読み、真の平和について考える時を持ちました。

 江田島の海軍兵学校でお前の敵はアメリカだと教えられた淵田美津雄さんは、アメリカに対する火のような敵愾心を抱き、360機編隊の一番機に搭乗し真珠湾を奇襲するのです。1941年12月7日早朝、「トラ・トラ・トラ(われ奇襲に成功せり)」と彼が報じた後、太平洋戦争の火ぶたは切られ、惨劇は4年に渡り繰り返され、1945年8月5日、日本の敗戦によって憎悪に満ちた戦争に幕が閉じられます。

 淵田美津雄さんの回心のきっかけは、アメリカに捕われていた日本軍捕虜からアメリカでの捕虜の取り扱いぶりを聞いてからでした。特に一人のお嬢さんが現れるようになって病人に対する心からの看護に心打たれた捕虜たちが、「どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねました。

 最初は返事をしぶっていましたがあまりにも皆が問いつめるので、やがて答えてくれた返事があまりにも意外でした。「私の両親が日本の軍隊によって殺されましたから‥‥」

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かつての敵同士を結びつけた聖書

 両親が日本軍によって殺されたから、日本軍捕虜に親切にしてやるというのでは話は逆です。詳しく話を聞くと、このお嬢さんの両親は宣教師でフィリピンにいたというのです。やがて日本軍がフィリピンを占領したので、難を避けて北ルソンの山中に逃げていたところ、そこにも日本軍がやって来て両親を発見しスパイの嫌疑をかけ、斬ることになりました。

 「私たちはスパイではない。だがどうしても斬るというなら仕方がない。せめて死ぬ支度をするので30分の猶予をください」と言って、聖書を読み神に祈って斬の座につきました。

 この知らせはアメリカで留守を守っていたお嬢さんのもとに伝えられました。最初は日本軍に対する憎悪で一杯したが、両親が殺される前の30分間の、その祈りは何であったのかを思った時、憎悪から敵を愛する愛へと変えられたというのです。

 淵田美津雄さんが後に聖書を手にして発見した箇所は、ルカの福音書23章34節にあるゴルゴダの丘(処刑場)で主イエスが祈った次の言葉でした。

 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」

 この言葉を読んだ時に、捕虜の兵隊たちを心からお世話をしていたあのお嬢さんの話が頭にひらめいたというのです。日本人を親の仇として憎しみ恨めば、やがてまた憎しみはもどって来て、争いは果てしなく続くであろう。地上に戦争が起こるのは憎しみが絶えないからだと知ったのです。

 淵田美津雄さんはこのことを知らされた時、目頭がジーンと熱くなり、かつて総指揮官であった男の目から大粒の涙がポロポロと落ちました。それは、燃える敵愾心を抱き戦い続けて来た男が、ゴルゴダの丘のイエス・キリストの十字架を仰ぎ見て、イエス・キリストを救い主として受け入れた時でもありました。 

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今日の聖書」コリント人への手紙第二5章17節


 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

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スティーブン・メティカフ宣教師

 1952年、一人のイギリス人青年が日本の宣教師となるために日本にやって来た。青年の名はスティーブン・メティカフ。OMF(国際福音宣教会)の宣教師として来日し、金木町、青森市、五所川原市、鯵ヶ沢町、弘前市などで熱心に宣教活動を行い、いくつもの教会の基礎を築いた人物である。


 スティーブンは中国南雲省の山奥にある先住民族が住んでいたリス村で生まれた。彼の両親はこの村でイギリスからの宣教師として働き、それまで医療と呼べるようなものがなかった村に医療院を開設し、ハンセン病患者の手当まで行っていた。

 さらに文字のなかったリス語の書き方を開発し、学校を作りリス語の読み書きと中国語を教え、多忙な生活に追われながら福音を伝えていた。1927年、父は息子が生まれたとき新約聖書の「使徒の働き」第六章を翻訳中だったので、そこに出て来る「信仰と聖霊に満ちた人ステパノ」から、息子を「スティーブン(ステパノの英語読み)」と名付けた。


 スティーブンが宣教師子弟のためのハイスクールで学んでいる14歳の時、当時中国を侵略していた日本軍によって彼の学んでいた校舎は丸ごと接収され、他の学生たちと共にスティーブンも捕虜収容所に送られた。
 

 スティーブンの日本人に対する当時の思いは決して良いものではなかった。日本人の中には、彼が重病の時に様子を見るために屋根裏までやって来て、真心からの心配を示し、治療のための薬を手に入れてくれた「本当の紳士」もいた。しかし、多くの日本兵による残虐な仕打ちによって惨い最期をとげた中国人をしばしば見かけた。同じ殺すにしてもなぜそこまでしなければならないのか。「これが人間のやることなのか」、彼が見聞きすることはとうてい赦せることではなかった。

      

 そのような日本人に対する憎しみの感情を抱いていた時、スティーブンはウェイシェン収容所に移された。そこで彼の人生を大きく変える人との出会いを経験することになる。エリック・リデルとの出会いである。リデルは、1924年のパリ・オリンピック400メートルで金メダルを獲得し、第54回アカデミー賞作品賞を受賞したイギリス映画「炎のランナー」のモデルとなった人物である。
 

 当時、エリック・リデルはスポーツマンとしてのキャリアをすべて投げうって、宣教師として中国で働いていた。しかし中国に侵略して来た日本軍によって捕らえられ、スティーブンと同じウェイシェン収容所に入れられたのである。リデルは妻や子供たちと引き離されていたが、被害者意識のかけらも感じさせなかったという。そして、抑留されている若者たちのためにバイブルクラスを作り聖書を教え、スポーツイベントを開催し、若者たちの精神的なケアをしていた。


 ある時のバイブルクラスで聖書を学んでいる時、若者たちの間で意見の対立が起こった。その聖書の教えとはマタイの福音書「山上の説教」の「自分の敵を愛しなさい」という一節である。若者たちにとって、「敵」という言葉から真っ先に浮かぶのは日本兵であった。中国人に対する日本兵のむごい仕打ちをさんざん見せつけられていたからである。スティーブン自身も両目をえぐり出されて眼球を下に垂らした姿で、市内をリヤカーに乗せて引き回されていた中国人を目撃したことがあった。この頃、彼が目にすること、耳にすることのすべては日本人を憎むに値する出来事ばかりだった。
 

 若者たちの思いが「敵を愛せるはずはない」という結論に傾きかけた時、リデルは次のように語った。

 

 「ぼくたちは愛する者のためなら、頼まれなくても時間を費やして祈る。しかし、イエスは愛せない者のために祈れと言われたんだ。だからきみたちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、君たちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りはきみたちの姿勢を変えるんだ」。

 

  スティーブンはそれまで日本兵のためになど、祈ろうと思ったこともないし、祈りたくもなかった。しかしリデルを心から愛し、彼のようなクリスチャンになりたいと思っていたスティーブンは、その時から思い切って祈り始めたのである。日本兵の振舞いが変わることはなかったが、自分の心に変化が現れて来た。以前はひどい行為を行っている日本兵個人に憎しみを向けていたが、人殺しを何とも思わなくなる「戦争」こそが問題であり、戦争そのものに強い怒りを向けるようになり、悲しみの感情を抱くようになって来た。

 

 また、残酷な行為を行う日本人であったとしても、神に愛されている存在であると思うようになった。イエスは自分を十字架につけた者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と祈られている。日本兵も自分が何をしているのかわかっていない。どれほど神を悲しませているのか気づかないでいる。一日も早く彼らがそのことに気づき、神の愛を知ることができるように願うようになった。「祈ることによって、きみの姿勢が変わる」とは、このようなことだったのかとスティーブンは自分の体験として知ったのだ。


 若者たちに聖書の奥深い真理を教えてくれたエリック・リデルであったが、このときすでに脳腫瘍に侵されていた。彼が天国に旅立つ3週間前、、自分のランニングシューズをスティーブンのもとに持って来て置いていった。それはかなり傷んだシューズであったが、リデルにとっては非常に意味のある競技会で使用した大切なシューズだった。そしてリデルが召された時、スティーブンはこのシューズをはいて他の仲間とともに彼の棺を担ぎ、殺風景な墓地の穴に彼の棺を降ろした。

 

 金メダリストとしてのすべての栄光を捨てて中国に命をささげた男の結末としてはみじめな最期である。しかしリデルの死を通し、スティーブンの心には彼のこれからの人生を決定づける思いが芽生えていた。


 「きっと自分にはやるべき仕事が残っているんだ。神様、もし僕が生きて収容所を出られる日が来たら、きっと宣教師になって日本に行きます。」という祈りであった。その祈りの通りに、25歳になったスティーブンは宣教師として日本にやって来た。

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メティカフ宣教師による弘前福音キリスト教会の岩木川での洗礼式

 スティーブン・メティカフ宣教師の最初の任地は青森県だった。彼の所属していたOMF(国際福音宣教会)の前身は、中国の奥地での伝道活動を重荷としていたCIM(中国奥地伝道団)である。OMFが1951年から青森県や北海道で開拓伝道活動を始めたのは、首都圏に比較して教会が少ないという理由であった。
 

 しかし、青森県に遣わされた宣教師が最初に突き当たる壁は、「津軽弁」であった。すでに2年間、軽井沢で日本語を学んで、ある程度の日本語は話せるようになっていたが、軽井沢で学んだ日本語は、津軽ではほとんど役に立たなかった。そこで再度、津軽弁を学ぶ必要があった。

 後に鯵ヶ沢町への宣教師となったOMF宣教団のジョン・エリオット宣教師によれば、戦後中国から追放され日本にやって来た宣教師たちの最初の拠点は青森県だったが、青森で伝道を開始しても最初に突き当たる高い壁が津軽弁だったので、後に拠点を青森市から札幌に移し、そこに日本語学校を設立したという。

 スティーブン・メティカフ宣教師の津軽弁に関する有名なエピソードとして次のようなものが残っている。

 

 まず最初に、津軽弁で「かねがあ」とは、「食べませんか(くわないか)」と教えられた。ある日家の外から。「ナシかねがあ」と物売りの声がするので、梨を買いに出てみると売っていたのは「茄子」であった。

 今度は「ナスかねがあ」と聞こえたので、今度こそ「茄子」だと思って出てみると「梨」だった。津軽弁ではシとスの発音がっ逆であることをこのとき知った。また、キリスト教の入門的なメッセージを記した「トラクト」を配っていた時、「どうぞお読みになってください」と渡したつもりが、「どうぞお嫁になってください」と言ってしまい驚かれたというエピソードもある。どうも日本語はあまり得意ではなかったようだ。

   それでも金木町、青森市、五所川原市、鯵ヶ沢町、弘前市と宣教を続けていったスティーブン・メティカフ宣教師を見ると、日本人に対する愛とともに津軽への愛を感じる。メティカフ宣教師一家が鯵ヶ沢に住んでいる時、メイドとして3年間働いた片川静子氏の話によれば、子どもたちは英語と完全な津軽弁を駆使していたので、奇妙な感覚に襲われたという。


  2014年6月7日、弘前福音キリスト教会の古くからのメンバーである石澤誠氏のもとにスティーブン・メティカフ宣教師が、天に召されたという連絡がイギリスからあった。86年の生涯であった。日本での働きを終え、イギリスに戻ったメティカフ宣教師は、日本とイギリスの和解のための働きを亡くなるまで続けた。日本軍の捕虜としての苦しみを経験した人々がイギリスの国内に数多く残っていたからだ。そのような彼の生涯を、イギリスの新聞は追悼記事で大きく紹介し、その生き方を紹介した。

 

 「炎のランナー」エリック・リデルが履いていたという運動靴を譲り受けたスティーブン・メティカフ宣教師は、「日本人を愛する」というバトンもエリック・リデルから受け継ぎ、ゴールまで駆け抜けたのだ。


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メティカフ宣教師が天に召されたことを報じるイギリスの新聞「ザ・タイムズ」


 「今日の聖書」 エペソへの手紙2章14~17節 
 
 

 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。


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  パブロ・カザルスと言えば、「無伴奏チェロ組曲」と、すぐにクラッシック音楽ファンに思い起こさせるほど、この曲のすばらしさを世に知らせることになった人物です。

 20世紀最高のチェリストと呼ばれ、当時人々から忘れ去られていたバッハの無伴奏チェロ組曲の古い楽譜をバルセロナの古本屋で見つけ、12年間日夜この曲を研究し弾き続けました。それによって、それまでチェロを弾くときの右手はきゅうくつで不自然な姿勢であった演奏法を
左手の指の動く範囲を著しく拡大できる演奏姿勢に改革し、チェロやヴァイオリンの近代的奏法を確率したと言われています。


 パブロ・カザルスの自伝「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」(朝日選書439)を読むと、カザルスは音楽家としての活動にとどまらず、反ファッシズムの立場を貫き通した人物であることがわかります。ヒトラーがフランス南部を占領するとカザルスはドイツ軍の捕虜となるのです。そしてカザルスは将来逮捕か処刑すべき人物のリストのトップにあげられていたのです。間もなくヒットラーの前で演奏するようにとの要請を受けるのですが、これを断るのです。

 彼がそのような生き方をした背景には母のピラールの影響を受けていたからです。母は弟のエンリケに招集礼状が届いたとき、「エンリケ、お前はだれも殺すことはありません。誰もお前を殺してはならないのです。人は殺したり、殺されたりするために生まれたのではありません。行きなさい。この国から離れなさい。」と語り、弟はアルゼンチンに渡り、11年間も会うことができなくなったのです。


 単に自分の子どもが殺されるのを嫌っていたのではありません。スペインにコレラが流行し、カザルスの住んでいた地区だけでも数千人の人が死んだ時、弟のルイスは「誰かがやらなければならない」と言って、コレラで死んだ人の家に行って、死体を夜中に共同墓地に運んで、伝染の危険が非常に大きかったにも関わらず、母は息子を思い止まらせるような言葉は一言も言わなかったのです。

 「母にとって最高の掟は個人の良心であった」「母は常に原則に従って行動し、他人の意見に左右されることはなかった。己が正しいと確信することを行ったのである。」とカザルスは記しています。

 母

カザルスの母 ピラール・デフィリョ・デ・カザルス  

 

 戦後、パブロ・カザルスは、アルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer)と共に核実験反対運動に名を連ねます。アメリカを訪問したとき、人々が個人用防空壕をつくり学校では原爆の防空演習をしているという新聞記事を読んで彼はぞっとし、1500万人の人々が死んだ戦争を経験したというのに、「これは狂気の沙汰だ。原爆の唯一の防御は平和でしかないではないか。」と語っています。今も聞かなくてはならないパブロ・カザルスの重要なメッセージです。

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今日の聖書 ローマ人への手紙 14章19節 

 

 そういうわけですから。私たちは、平和に役立つこと、お互いに霊的成長に役立つことを追い求めましょう。



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三浦綾子

 もう五十年以上も前のことになりますが、ミッションスクールに通っていた友人から一冊の小説を贈ってもらいました。朝日新聞社から刊行されたばかりの三浦綾子著「氷点」です。「氷点」は。朝日新聞者が募集した一千万円懸賞小説に入選した小説で、懸賞小説の募集要項には、「既成の作家、無名の新人を問わない」とありましたが、実際に入選したのは雑貨屋を営む一主婦ということで大きな話題となりました。その後テレビドラマ化され、放映されるとその時間は銭湯がガラガラになるという社会現象になりました。日本テレビの人気番組「笑点」のネーミングもこの氷点をもじったものです。


 氷点のテーマは「原罪」ということで、人間が生まれついた時にもっている罪のことであるという説明を受けましたが、当時キリスト教には門外漢の私にとってはよく分かりませんでした。しかし氷点を読んで間もなく私は教会に通い始め、その年に洗礼を受けたので、私にとっては忘れることのできない小説となったのです。教会に通うようになり購読するようになった「信徒の友」には、この年から三浦綾子さんの「塩狩峠」が連載され、主人公永野信夫の生き方を通して、キリスト者として生きる姿がどのようなものであるかも知ることができました。氷点

 しかし、それまでの私の生き方を問うことになったのは、同じ友人から勧められた夏目漱石の「こころ」でした。この小説も同じ朝日新聞の連載小説で、テーマは原罪と関わりの深い「エゴイズム」の問題です。小説の語り手である「私」は主人公の「先生」に出会うことから物語が始まるのですが、先生の人生哲学は、「人はいざとなったら自己本位にしか生きることができないので、最終的に信じることができるのは自分しかいない」というものでした。


 これには私も大いに共感できるところがあり、本を読み進めていくうちに衝撃的な最終結論を知ることにななるのです。この「こころ」の読後感として、「これまで最終的に信じることができるのは自分しかいないと思っていたが、その自分をも信じることができないとしたら一体何を信じたら良いのか」ということでした。そのことが聖書に記されている真理を熱心に追い求めることになり、神を信じることにつながるのですから、私にとっての三浦綾子と夏目漱石は、キリスト教信仰への道を照らしてくれた大恩人であると言っても良いかも知れません。

 文芸評論家の佐古純一郎氏は、毎日新聞に連載した「キリスト教と文学」の中で、「キリスト教文学」が鮮明に成立してくるのは二十世紀に入ってからであり、しかもその十九世紀から二十世紀への転換点にたつ作家としてドストエフスキイの存在を挙げています。そして、表現の主体の問題とテーマの問題、さらに素材の問題と表現の視点の問題を挙げていますが、「キリスト教文学」の主体の問題に関しては、「それは、もうはっきりと、『キリスト者』と規定できるように思います。」と記しています。同じくキリスト者で作家の椎名麟三がドストエフスキイの影響を受けて信仰を持つようになったというのも興味深いことです。

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雑貨屋時代の三浦綾子さん


 文学作品は本来作家が読者にもっとも伝えたいモチーフを持っているべきであり、三浦綾子さんは、キリスト者として自らの信仰の立場から、エゴイズムと神の愛の関係、聖書の語る中心的なメッセージと現実の世界との関わりを文学という形式で表現していると言えます。

 三浦綾子さんの文学作品は「純文学」ではなく「護教文学」であると、文学通を自認する一部の人から揶揄されたこともありますが、読者に文学作品のテーマを通して自らの生き方を問い直させ、新しい生き方を示すという点では、彼女の作品の読者にいまだに大きな影響をもたらし続けています。その読者の一人として私も五十年以上前に自らの生き方を問われ、今このようにあるのですから。

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今日の聖書」ヨハネの福音書9章24〜33節

 そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

 彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」

 その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。 私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」



 昨年の「弘前さくらまつり」は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止になり、弘前公園も封鎖になりました。さらに外堀の桜が満開になってもそれをSNSにアップしないようにとのメッセージが出され、弘前公園のさくらを見ることができませんでした。

 

 「今年こそは」と張り切っていたのですが、「まん延防止等重点措置」が出され、県境をまたく往来をしないようにとのメッセージが流され、泣く泣く予約していたホテルを解約しました。私は弘前公園本丸の年間入場パスポートを購入していたので、弘前市から2021年度も入場できる案内が送られて来ていたのですが、それも使うことなく終わってしまいました。

 

 こんな時にお世話になったのは、「東奥日報」のサイトにアップされていた。「弘前公園外堀のサクラ タイムラプス動画で」です。東奥日報社は3月から外堀のサクラをタイムラプス撮影(低速度撮影)というのです。それを6分にまとめているので、徐々にピンクに色づき、途中で雪に覆われ、また開花、花筏となっていく様子を見ることができました。

 しっかりと夜の部分もあり、「夜は長い」と最初は思っていたですが、明るくなるとだんだん桜の木がピンクに色づき、ライトアップもされるようになり、花筏で濠がいっぱいになるなど、みごたえがありました。来年こそは、「弘前公園で見たい!」と思っていますが、コロナ禍で行動が制限されている昨年に引き続き、今年の東奥日報社の動画にも感謝しています。

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 「今日の聖書」 イザヤ書 40章6~13節 
 
 

  「叫べ」と言う者の声がする。

  「何と叫びましょうか」と人は言う。

  「人はみな草のよう。

  その栄えはみな野の花のようだ。

  主の息吹がその上に吹くと、

  草はしおれ、花は散る。

  まことに民は草だ。

  草はしおれ、花は散る。

  しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

 

  シオンに良い知らせを伝える者よ、

  高い山に登れ。

  エルサレムに良い知らせを伝える者よ、

  力の限り声をあげよ。

  声をあげよ。恐れるな。

  ユダの町々に言え。

  「見よ、あなたがたの神を。」

  見よ。 神である主は力をもって来られ、

  その御腕で統べ治める。

  見よ。その報いは主とともにあり、

  その報酬は主の御前にある。


  主は羊飼いのように、その群れを飼い、

  御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、

  乳を飲ませる羊を優しく導く。




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 3月17日の朝、Googleの検索バーの上のイラストを見て「Google」の文字がイラストになっていたので、不思議に思いクリックしてみると「
聖パトリックの祝日」の検索リストが出てまいりました。

 そのリストの中の一つに次のような説明がありました。
「アイルランドにキリスト教を広め、アイルランドの守護聖人である聖パトリックの命日であり、キリスト教における聖人の記憶日である聖名祝日」(雑ネタ手帳より)

聖パトリックデー
画像:Leandee Club

 この日、アイルランドでは国花である「三つ葉のクローバー」を服につけるというのですが、なぜ三つ葉のクローバーなのかは、ネットではあまり紹介されていません。実は、三つ葉のクローバーであることは、聖書と深い関わりがあるのです。

 アイルランドにキリスト教を伝えたパトリックは、三つ葉のクローバーを見て新約聖書のコリント人への手紙13章13節にある、
いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」というメッセージを伝えました。そして四つ葉は、キリストの十字架を思い浮かべることができるので、「幸運」のしるしとして教えたようです。


 最初、弘前公園で何枚もの四つ葉のクローバーを発見し、幸せな気持ちになりましたが、パトリックが三つ葉のクローバーを見て「信仰、希望、愛」という聖書のメッセージを伝えたということを知って、「三つ葉のクローバー」の価値をあらためて知らされました。何としてでも福音のメッセージを伝えようとしたパトリックの宣教スピリットを見る思いです。

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 「今日の聖書」 コリント人への手紙第一 3章12~13節 
 
 

 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」


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  きよしこの夜 星は光り

  救いの御子は まぶねの中に

  ねむりたもう いとやすく



 讃美歌「きよしこの夜」といえば、クリスマスが近づけばあちこちから流れ、多くの人が耳にして歌うこともできる有名な讃美歌です。この曲が誕生したきっかけは、オーストリアのオーベルドルフという村で一八一八年のクリスマス間近に起こったある出来事でした。

 ある日の午後、教会のオルガン奏者であったグルーバーは、大事なクリスマス礼拝のため、奏楽の練習をしておこうと教会に出かけ、オルガンのペダルを踏みました。しかしどうしたことか、オルガンからはさっぱり音が出ません。調べてみると、空気ぶくろに穴が開いていたのです。原因は、ねずみがかじったからだとわかりました。すぐに修理などとてもできません。大切なクリスマスの礼拝を前に、大変なことになったのです。

 そこへ、ヨセフ・モーア牧師がやってきました。奏楽者であり、教会学校の校長でもあったグルーバーからこの事態を聞いたモーア牧師は、しばらく思案したあとで次にように言いました。

 「グルーバー先生。オルガンがだめなら、ギターがあります。これは私がつくった詩ですが、先生、ギターで歌えるように、曲をつけてください。」

 その詩は、前日、モーア牧師が、赤ちやんの生まれた山小屋の家族を見舞ったあと、雪あかりの中を下山したとき、あまりの静けさと、滑らかな美しさに深く感動して書かれたものでした。詩を読んでいくうちに、グルーバーの心に、熱いものがこみあげてきました。そして一気にできあがったのが、讃美歌の名曲「きよしこの夜」でした。

 クリスマス礼拝の当日、凍りついた雪を踏みしめ、教会に集った村の人たちは、生まれてはじめて、オルガンなしの礼拝を経験しました。ところが、ギターとともに聖歌隊が歌うこの賛美歌の、シンプルな美しさに深く感動したのです。


 やがてオルガンの修理のためにやって来た調律師によって、周辺の町や村にこの楽譜は持ち運ばれ、ジレルタルの谷間に流れた「きよしこの夜」の歌は、歌いつがれて、世界中の人々に歌われる有名な讃美歌となったのです。

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今日の聖書 ヨハネの福音書 1章14節

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 

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 ユダヤ人の
マービン・トケイヤー氏は、ラビとして来日し、日本文化とユダヤ文化の比較研究をし、日本語で数多くの著書を出版しています。トケイヤー氏の著書のひとつ、「ユダヤ格言集」の中には、「老人を大切にせぬ若者には、幸福な老後は待っていない」というテーマで、冒頭に次のような老人の「あるある」的なユダヤ人ジョークを紹介しています。


 人から「お若いですな」といわれたら、老年に入った兆しである。
 つぎに、もっと年をとると、トイレに入ってから、ズボンのチャックを上げるのを忘れるようになる。そして、さらに年を取ると、チャックを下ろすのを忘れるようになる。


 別の著書では、
人間は究極的には、何をするか(What I do)、ということよりも、何であるか(What I am)、ということが重要であるはずだ」と語っています。

 

 生きていく中で、何をするかといことは重要なことですが、ただ若さや活動力だけが評価される社会は不幸な社会です。なぜなら、そのような社会には必ず敗北が待っています。どんなに社会的に活躍した人でも老年を迎え、若い時のようには活躍できなくなる日が必ずやって来るからです。

 老人を見て、「クソじじい」「クソばばあ」と嘲る若者は、年老いて自尊心を持って生きることなどできません。トケイヤー氏は、「老人が大切にされている社会には落ち着きがある」「悲惨な老年を送りたくなかった、老人を敬うことだ」と著書の中で語っています。さすが、根底に旧約聖書の知恵がある「ユダヤ人ラビ」と思わせる言葉です。

 

 何をするか(What I do)というだけの価値観ではなく、何であるか(What I am)」という価値基準を持つことが、年齢を重ねても生きがいを失うことなく生きる秘訣です。

 老年になって、自分に対して周りがどのような評価をしようとも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43章4節)とみなしてくださる創造主を知っているなら、そのお方の前で自分は「何であるか(What I am)ということが大切になってくるのです。

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  今日の聖書 イザヤ書46章3-4節

 

  わたしに聞け、

  ヤコブの家とイスラエルのすべてののこりの者よ。

  胎内にいる時からになわれており、

  生まれるまえから運ばれた者よ。

  あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。

  あなたが白髪になっても、わたしは背負う。

  わたしはそうしてきたのだ。

  なお、わたしは運ぼう。

  わたしは背負って、救い出そう。

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 「大浦天主堂」は、1865年に建てられ、現存する日本最古の木造ゴシック建造物で、1953年に国宝に指定されました。正式名には「日本二十 六聖殉教者天主堂」で、正面が26名のキリシタンが処刑された長崎西坂の丘に向けて建てられています。


 鎖国によって国を閉ざしていた江戸幕府の主なる目的は「キリスト教の禁止」にありました。明治政府になってもキリスト教の禁止の政策は引き継がれ、キリシタン禁制が解かれたのは明治6年(1873年)になってからです。当初この地で働きを始めたフランス人のプチジャン神父は、弾圧の中をくぐり抜けてきた信徒たちを捜しましたがなかなか見つけることができませんでした。


 しかし会堂が建てられた1865年、浦上村から十数名の男女が「南蛮寺見学」にやってきて、そのうちの一人の女性が祈っていたプチジャン神父に近づき、「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ(私たちは皆、あなたと同じ心です)」と、キリスト教信仰をもっていることを告白したのです。

 彼らは江戸幕府による激しいキリシタン弾圧の中でも信仰を持ち続けた人々の子孫でした。このニュースは、プチジャン神父からローマに報告され、250年ぶりの「信徒発見」「東洋の奇蹟」として世界中に伝えられました。

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プチジャン神父


 その後信徒たちは、自分たちがキリスト教信仰をもっていたことを公表し檀家を離脱するに及んで、幕府はこれを見過ごすことが出来ず、浦上村の中心人物68名を捕らえ、拷問し改宗を迫るという弾圧を始めるのです。

 幕府崩壊後、明治政府においてもこの弾圧は続き、明治維新の立役者の一人でもある木戸孝允(桂小五郎)は、「巣窟であるキリシタンの村を一掃し、住民を名古屋以西の10万石以上の諸藩に配分し、改宗させるため、藩主には生殺与奪の権限を与える」という政策を提案します。

 これが受け入れられ、1868年、浦上村の信徒たち3394名は根こそぎ流罪にされ、鹿児島、萩、福井、高知、名古屋など21藩22箇所で、拷問と棄教を迫られました。その結果611名が命を落とすという「浦上四番崩れ」と呼ばれる、明治政府による大迫害の記録として歴史に刻まれることになったのです。


 この事件は世界中から非難と抗議を受けました。木戸孝允自身も各国と結んだ不平等条約の改正のために、岩倉具視使節団の一員として1971年(明治4年)からアメリカとヨーロッパ諸国を訪問しましたが、キリスト信徒の弾圧を行い、信教の自由を認めない野蛮な国で近代文明国家とほど遠い国であると、行く先々で抗議を受けて条約改正どころではありませんでした。そこでついに、「流刑にした人々を開放し、信教の自由を認めなければ条約改正は期待できない」と東京に打電することになります。

 1873年(明治6年)、ついに明治政府はこの処分を撤回し、信徒たちの解放を決定し、キリスト教禁止令を廃止するのです。流刑によって家族はバラバラになり、重労働や改宗を迫る激しい拷問を受けながらも、大半の信徒たちは信仰を守り通しました。「改心(棄教)」して一足早く故郷に戻った者も、「改心もどし」をし、信仰を回復したといわれています。彼らは流刑された日々を「旅」と呼んで「旅の話」を子孫に語り継ぎました。

 「大浦天主堂」は、キリシタン弾圧を絶え抜いて来た「信徒たちの発見」という事実だけがクローズアップされていますが、実は信徒たちの発見の後に起こった出来事と、彼らの信仰のほうがもっと大きな出来事だったのです。

 

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日本二十六聖人記念館


「今日の聖書」 ヘブル人への手紙 11章13~16節


 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。


 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

朝の祈り 林竹治郎
「朝の祈り」林竹治郎(1871-1941)第一回文展入選作(1906作)北海道立美術館蔵

 上の絵は、林竹治郎画伯が第一回文展に応募し入選した「朝の祈り」という絵です。毎朝、家族で聖書を読み祈っている「家庭礼拝」の風景が描かれていますが、このモデルとなったのは敬虔なクリスチャンであった林竹治郎画伯自身の家族です。 

 母のひざに伏して祈っている三歳ほどの男の子は、後に北大医学部一期生として入学し、卒業後は医師として「救ライ(ハンセン病患者救済)」の働きのために生涯をささげた林文雄博士です。

 敬虔なクリスチャンであった両親は、清貧の中から息子を医学部に学ばせ、卒業してやれやれと思ったら、本人は「最も人の手の足りないところ、もっとも人が嫌がるところ、そして最も苦しむ人々のために生きよう」と、
ハンセン病患者救済のための医師としての道を歩み始めました。

 当初、林竹治郎画伯は、息子が
救ライ活動(ハンセン病患者救済)の医師になることを大反対していました。しかし晩年には、住んでいた札幌から鹿児島の国立ライ療養所「星塚敬愛園」の初代園長の立場にあった息子のもとに移り住み、共に住みハンセン病患者救済のために自分の絵を売ってクリスチャンである息子の働きを側面から支えました。そして、「楽園」と呼んでいた息子の家でその生涯を終えました。

 鹿児島の星塚敬愛園には、 1935年10月5日から1944年2月9日まで園長をつとめていた林文雄博士を記念した石碑があり、その中央には
林竹治郎画伯の「朝の祈り」のレリーフ(下の写真・星塚敬愛園ホームページから)がおさめられています。

 なお、林文雄博士は、ハンセン病の病型分類に大きく貢献し、世界的にも評価された研究者としても知られています。南九州、奄美、沖縄などのハンセン病患者救済のために活動し、理想の療養所建設に力を注いでいましたが肺結核で倒れ、1947年7月18日に天に召されました。
林文雄記念碑

星塚敬愛園ホームページ

今日の聖書」 マタイの福音書25章347~40節

 

 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
 

 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
 

 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

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 言葉は不思議なもので、人を生かすこともできるし、殺すこともできます。

 

 幼い頃に褒められた言葉がいつも心に残り、その言葉が人生の困難な局面でよみがえり、再び前進する力となることもあります。反対に、人を傷つける言葉がその人の夢を打ち砕き、絶望に追いやることもあります。特に、ネット時代には匿名で簡単に人を傷つける言葉を書き込むことができるために、数多くの悲しい事件が起こっています。

 新約聖書ヤコブの手紙には、「もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です」と書かれていますが、何気なく語った言葉が思わぬ波紋を起こすのは、日常生活の中でよくあることです。

 言葉で傷つくことが多い日常で、レテー・B・カウマンの「中傷を忘れなさい」という詩は、なぜか心に迫ってきます。この詩の中には、「忘れなさい」「笑ってすませなさい」という言葉が繰り返されます。このように語る背景に、決して人間を見捨てることのない神の存在を覚えているからでしょう。

 彼女は宣教師として日本に大きな足跡を残した方です。著書「
荒野の泉」は、一九二五年に世界十二カ国語に翻訳され出版されました。今でも聖書と共に彼女のメッセージに接している人々が大勢おられます。その理由は次のメッセージをお読みになればお分かりになると思います。彼女のように人を生かす言葉を語りたいものです。

 

 「中傷を忘れなさい」

 
 試みられた時耳に残る
中傷を忘れなさい。

 荒々しい、思いやりのない言葉を忘れなさい。

 口論やその原因を忘れなさい。

 忘れるのが何よりです。

 

 昨日の嵐を忘れなさい。

 白髪がまじってきたのを忘れなさい。

 しかし、一日の終わりに神を忘れてはいけません。

 

 争いにまけても、
 あなたの権利をごまかされても、
 笑ってすませなさい。

 

 ささいなことで悲しまず、

 小さなことで大騒ぎをせず、

 笑ってすませなさい。

 

 仕事をこじらせ、

 追いつめられてはいませんか。

 笑ってすませなさい。

 気を確かにもちたいなら、

 笑いにまさるものはありません。

 笑ってすませなさい。

 

 神はあなたがたをかえりみてくださるのですから、

 自分の思い煩いを、一切神にゆだねなさい。

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今日の聖書 ピリピ4章6~7節 


 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、
 あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
 あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

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