いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサロニケ5章16〜18節

ベン・ハー ポスター

 1959 年制作のアメリカ映画「ベン・ハー」は 、アカデミー賞 11 部門のオスカーを 受賞し、至上最多受賞作品の一つとして知られる名作です。しかし、この作品の原作者ルー・ ウォーレスについては映画作品ほど知られてはいません。
 

 ルー・ ウォーレスは、1878年から1881年にニューメキシコ準州の知事に就任しています。知事の任期を終えて故郷に帰ろうとして、友人のロバート と一緒に汽車に乗りました。車窓から見えるたくさんの教会堂を見ていた時、ロバートは次のように言いました。

 「いまだにばかばかしい聖書の教えを信じている知識階級の人々が 大勢いる。君は教養もあり、なかなかの思想家だ。材料を集めてイエスは架空の人物であった ことを証明する本を出してみないか。きっとその本は君の一代傑作となり、君も一躍有名になる」

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 この言葉に刺激されたルー・ ウォーレスは、その後たくさんの図書館をまわり、資料を集めて執筆にかかりました。 しかし、4章まで書いたとき、彼はイエスがソクラテスやプラトンやシーザーと同じく実在し ていた人物であることが明瞭になってイエスが歴史上の人物であることが否定出来なくなった のです。


 そこで今度は 「もしイエスが実在した人物であるなら、イエスが主張しているように、彼は神の子であり、世界の救い主でなければあのようなすばらしいみわざわ誰にも出来ないの ではないか」と自問自答するようになり、ついにある晩生まれて初めてひざまづいて 神に祈り、罪の赦しを乞い、早速クリスチャンである妻を起こして、 自分がイエスを救い主として受け入れたことを告白しました。
 

 せっかく時間と莫大な費用をかけて集めたこの資料をどうしようかということになり、「では、今後はそれをもってイエスは間違いなく神の子であり、世界の救い主であることを 証明する本を書いてみては」という彼の妻の提案で書いたのがあの「ベン・ハー」でした。

ベンハー


今日の聖書 ヨハネの福音書1章14〜18節

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」

 

 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。


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オー・ヘンリー(O. Henry)は短編小説の名手と呼ばれていますが、「最後の一葉」は、愛と希望が人を生かすこという真理を教えてくれる感動的な内容です。

 この作品のあらすじは、重い肺炎を患って生きる気力を失った女性が、窓の外に見える煉瓦の壁を這う蔦の葉を数え、「あの葉がすべて落ちてしまったら自分も死ぬ」と思ってベッドに横たわっていたところ、一晩中激しい風と雨が吹き荒れ、朝にはとうとう蔦の葉は最後の一枚になってしまうという危機から不思議なことが起こり始めます。

 

 どうしたわけか、その残った一枚は、その次の夜の激しい風雨でも落ちることなく壁に留まっていたのです。来る日も来る日も落ちないで蔦についているのを見ているうちに、その女性は生きる気力を取り戻し、やがて全快していくのです。実はその落ちなかった一枚の葉は、彼女の住んでいたアパートの階下の老画家が、「葉が落ちてしまったら自分は死んでしまう」と思い込んでいる彼女の事を知り、彼女に生きることの希望を与えたい思い、嵐の中で煉瓦の壁に絵筆で描いたものでした。

 

 落ちなかった一枚の葉の絵を描いた老画家は、二日後に肺炎でこの世を去ります。それを知ったもう一人の画家は、老画家が最後に煉瓦の壁に描いた最後の一葉こそ、老画家がいつか描いてみせると言い続けて来た傑作であったことを知るというところでこの物語は閉じられます。

 

 老画家が自分を犠牲にして嵐の夜に煉瓦の壁に一枚の葉を描くという出来事の背後にあったのは、愛と犠牲でした。私はこの「最後の一葉」を読むと、イエス・キリストが自らを犠牲にして十字架にかかり、私たちの救いの道を開いてくださった愛を思い起こすのです。


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聖書のみことば ローマ人への手紙 5章8節


 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(コリント人への手紙13:13 )


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 松見ケ丘キリスト教会のある町田市は、東京都内では23区、八王子市に次いで三番目に人口の多い地です。1960年代からは東京のベッドタウンとして発展しましたが、多摩丘陵にあるために今でも田園風景が数多く残っています。

 クリスチャン詩人として知られている八木重吉は1898年、南多摩郡堺村相原大戸(町田市相原町)で生まれました。最初に出版した詩集「秋の瞳」の中には、自然豊かなふるさとの相原への郷愁をうたった詩がおさめられています。

   「ふるさとの川
    ふるさとの川よ
    ふるさとの川よ
    よい音をたててながれているだろう

   「ふるさとの山
    ふるさとの山をむねにうつし
    ゆうぐれをたのしむ

 現在、生家の敷地内にあった土蔵は改造され、八木重吉記念館となっています。そして、前を通っている町田街道の生家付近は今なお緑豊かな景色です。

八木重吉
 重吉は神奈川県師範学校を経て東京高等師範学校の英語科に進みました。在学中、クリスチャンの同級生と親しくなり、バイブルクラスに通うことがきっかけで洗礼を受け、熱心なクリスチャンとなりました。

 下宿先に、女子聖学院編入試験のために訪れた島田とみに、約一週間英語と数学を教えたことから親しくなり文通を始め、英語教員となった24歳のとき彼女とで結婚します。翌年、長女桃子を、翌々年には長男陽二をさずかりますが、体の弱かった重吉はやがて自分の死を意識するようになり、家族のことを思い涙します。

    「
    朝眼を醒まして
    自分のからだの弱いこと
    妻のこと子供達の行末のことをかんがえ
    ぼろぼろ涙が出てとまらなかった


 詩集「秋の瞳」を刊行した翌年、結核の病で臥せることになり、容体が悪化する中で第二詩集「貧しき信徒」の編纂に取りかかります。しかしその出版を見ることなく1927年、29歳の時、茅ヶ崎の自宅で天に召されました。貧しき信徒の最後の2篇は彼のあこがれていた天の故郷を思わせるものです。

    「無題
    神様あなたに会いたくなった

    「無題
    夢の中の自分の顔と言うものを始めて見た
    発熱がいく日もつづいた夜
    私はキリストを念じてねむった
    一つの顔があらわれた
    それはもちろん現在の私の顔でもなく
    幼ない時の自分の顔でもなく
    いつも心にえがいている最も気高い天使の顔でもなかった
    それよりももっとすぐれた顔であった
    その顔が自分の顔であるということはおのずから分った
    顔のまわりは金色をおびた暗黒であった
    翌朝眼がさめたとき
    別段熱は下っていなかった
    しかし不思議に私の心は平らかだった
 
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 「今日の聖書」ヘブル人への手紙 11章13〜16節

 

 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
 

 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。
 

 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。
 

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 一般的に「出世」と言えば、「世に出て高い地位につき、世間に名が知られる身分になること」とされていますが、「出世とは世から出ると書き、上に出るか下に出るかの違いがある。私は下に出る」ということで、高齢になってから山谷伝道を始められた中森幾之進先生の著書「信仰どじょう鍋」は、私の愛読書でした。

 この本に感動し、中森幾之進先生をゲストに招いた信徒集会に参加したことがあります。集会が終わって記念写真撮影をすることになり、たまたまカメラをもっているこということでカメラマンを頼まれました。中央に座った中森幾之進先生の表情には、それまでの真実な生き方をしのばせるものがありました。


 「信仰どじょう鍋」の本の中には、愛媛で伝道されていたとき出会った成順華さんのことが紹介されています。成順華さんは、戦争中の朝鮮から日本に夫と一緒にやって来て30年間信仰を守り通し、夫が亡くなったとき教会に葬儀を頼んだことから中森幾之進先生の牧会していた教会に通い始めます。

 彼女は20代の若い頃、朝鮮の村に巡回してやってきた宣教師に導かれ、信仰を持ちました。やがて同じクリスチャンの夫と結ばれ、日本に渡ってやって来たのですが、住んだ近くには母国語の教会がなく、夫と聖書を読んで祈ることが二人の日本における信仰生活でした。


 「朝鮮の教会、日本になかったよ。朝鮮では教会も信者も多いね。日本にいる朝鮮人信者少ない。子どもたち神様わかなない。わたし、つらかったね」と中森牧師に語ります。しかし、夫の葬儀を日本の教会でやってもらったことから日本の教会に通い始め、孫を連れて教会に出席するようになったのです。

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 成順華さん一家は、長男は豚を飼い、次男三男は家族ぐるみで飼料を集める。廃品回収をしたり、日雇い生活をしたり経済的にはどん底生活を続けて来たご一家でした。順華さんは、ゼンソクの持病があり、気の毒なほど咳き込むことがありました。次男の日本人の妻が赤ん坊を残して家出したので、母親代わりにその子どもを育てていました。

 「哺乳瓶を持ち、ねんねこで赤ん坊をおんぶした成順華さんを会衆の中に見ると、わたしの心は燃えた」と中森幾之進牧師はその本に記しています。真剣にみことばのメッセージに聴き入る聴衆の姿に心が燃やされ、メッセージを語る伝道者の様子が見えてくるような思いがします。


 夜の集会には、家族6、7名を連れて出席し、中森牧師に祈りを求めました。家族が不幸に出会うと、朝四時ころから付近の山に登って太陽が昇るまで祈り続けました。打開の道がつかない苦しみの中でも、「神様のお恵み十分よ」と語っていた成順華さんは、キリストの愛に迫られていたのだと中森幾之進牧師は述懐しています。


 成順華さんが教会に集うようになって、トイレとCSの教室が光るように美しくなりました。週日に来て、こっそり掃除を続けていたからでした。空咳をする中森牧師のために煎じ薬をもってきて、無理やり飲ませ、「先生、あなたのからだ、神様のもだよ、粗末にするのは良くない」と言って熱心に祈ってくれたこともありました。
 

 そんな順華さんがはじめて中森牧師に泣いた顔を見せたことがあります。孫の良雄君が洗礼を受けたいと言って牧師に申し出たときでした。「子どもたち神様わかなない。わたし、つらかったね」と語っていた順華さんに信仰の後継ができたからでした。


 「信仰どじょう鍋」は、信仰を持って間もない頃に、私にキリストにある生き方のすばらしさを教えてくれた本です。体当たりでキリストの愛を伝えようとする伝道者の姿と、どんなに貧しくとも、キリストの愛に迫られ、「神のお恵み十分よ」と告白できる成順華さんのような信仰者の生き方があると教えてくれたすばらしい本です。そして、「信仰どじょう鍋」は、今なお私の大切な本の一冊となっています。

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 「今日の聖書」 コリント人への手紙第二  8章9節


 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。


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オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)といえば、「ローマの休日」や「マイ・フェア・レディ」をはじめ数多くの映画に出演し、「繊細、無垢な印象を与える演技」(ニューヨークタイムズ)で、今も映画ファンの心に深く刻まれている人物です。
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 その後、映画で顔を見かけることがなくなり、再び彼女の動向が注目され出したのは、ユニセフ(国際連合児童基金)の親善大使としての活動でした。アフリカ、南米、アジアの恵まれない子どもたちへの援助活動に献身し、アメリカ合衆国の文民に対する最高勲章である「大統領自由勲章」を亡くなるひと月前に受賞しています。
 
 しかし、オードリー・ヘプバーンがユニセフの働きを始めたのは、1954年からです。そのきっかけとなったのは彼女の少女時代の衝撃的な経験でした。ドイツ占領下のオランダで、ナチスに捕らえられたユダヤ人たちが貨車に詰め込まれて輸送されて行くのを何度も目にするのです。

 特に両親とともにプラットホームに立ち、ダブダブのコートを身につけた、透き通るような金髪と青白い顔色をした少年がユダヤ人を輸送する列車の中に呑み込まれていく様子は、彼女の心から生涯消えることがありませんでした。
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 大戦中にヘプバーン自身も、栄養失調で苦しみ、呼吸障害と重度の貧血、浮腫に苦しみます。このような少女時代の経験があって、困難の中に生きている子どもたちのために献身し、ユニセフ親善大使としての活動を行うようになるのです。
 
 彼女の出演する映画スクリーンの中での女優としての魅力と美しさは格別ですが、若い頃とは比べ物にならないほど皺が多くなり、少し憂いにみちた表情で少年に寄り添い、訴えるような眼差しのオードリー・ヘプバーンの美しさは、人間としての美しさそのものです


 「今日の聖書」ヨハネの手紙 第一 4章7〜10節

 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。

 愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。

 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。


 神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。

 それによって神の愛が私たちに示されたのです。

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。


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カウナスの領事館は今も当時のまま残されている  撮影:S・YAMASHITA

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ホロコースト博物館記念樹

 イスラエル・エルサレムの新市街には、ホロコースト博物館があります。ナチス・ドイツによって虐殺されたユダヤ人犠牲者を追悼するための施設です。2013年、ホロコースト博物館の展示物はユネスコ記憶遺産に登録されました。

 

 この博物館には、ホロコーストに関して記憶されるべき様々な遺物や証言などが保存されていますが、ホロコースト博物館の敷地の中には、記憶されるべき人々の記念樹も植えられています。そのうちの一本にリトアニア領事館の領事代理としてユダヤ人避難民6000人にビザを発給し、ナチスから救った杉原千畝(すぎはら・ちうね)の記念樹もあります。

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 当時、リトアニア領事館の領事代理であった杉原千畝は、ヨーロッパ各地から逃れてきたユダヤ人難民の窮状を捨て置くことができず、外務省の訓令に反してビザを発給し続けました。

 終戦後ソ連での収容所生活を経て日本に戻って来た杉原千畝は、三ヶ月ほどすると外務省から呼び出され解雇を告げられました。その理由は外務省の訓令に背いてユダヤ人にビザを発給した責任を問われたからです。良心に従って行動した彼の行為に対して、外務省の同僚たちからは、「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という根も葉も噂が流されていました。

 極限状況のなかでとった人道的な行動を称賛されてしかるべきなのに、このような噂まで立てられていることを知った時の悔しさ悲しさはどれほどのものだったでしょうか。



 

 杉原一家の生活はたちまちのうちに困窮し、一家はしばらくは苦難の道を歩むことになります。しかし、リトアニアでの行動が報われたと感じる時がやって来るのです。1968年、ビザを発給してもらったうちの一人、ニシュリがイスラエル大使館の参事官として日本に赴任し、28年ぶりに二人が再会することになります。

 ニシュリが手に握っていたのは、もうボロボロになってしまったあの時のビザでした。このとき杉原千畝は、自分の行為が無駄でなかったことを知り、これまでの苦労が報われたという思いになったといいます。それは、リトアニアのカウナスの駅を離れるときにユダヤ人たちが叫んだ言葉、「私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたに会います」という、民族としての約束を彼らが果たした瞬間でもありました。



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左から幸子夫人と杉原千畝氏 右端が長男の弘樹氏(「六千人の命のビザ」から)

 杉原千畝のビザ発給によって救われた人々が、遂に「センポ・スギハラ」を探し当てたとき、彼が失職覚悟で日本政府の訓令に背いてまでもユダヤ人を救うために、ビザを発給し続けたことを知り、驚くのです。そして1985年、イスラエル政府は、危険を冒してナチスの迫害からユダヤ人を守った非ユダヤ人に対して贈られる「諸国民の中の正義の人」として、杉原千畝にヤド・ヴァシェム賞を贈り、報いを求めないで行ったその働きに感謝したのです 。日本政府によって杉原千畝氏の名誉回復がなされたのは2000年になってからのことです。


  私も杉原千畝氏のお名前とその働きについてはすでに知ってはいましたが、1995年エルサレムにあるホロコースト博物館を訪問し、ガイドから杉原千畝氏の記念樹前で彼の功績に関する説明をお聞きしたときは、人間として、キリスト者として、その良心の声に従って生きた杉原千畝氏の愛と勇気に感動し、涙を禁じ得ませんでした。


「杉原千畝」が「Google」の検索画面トップのロゴマークに1日限定で
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 2019年7月29日、「Google」は、検索画面トップのロゴマークに杉原千畝をあしらった1日限定の記念デザインを採用しました。今回の記念ロゴは、見開きのパスポートに杉原千畝の顔が描かれたデザインで、「Google」の文字の部分がビザのスタンプ風になっています。また人の形が多く描かれ、杉原が出した「命のビザ」で救われた6000人のユダヤ人を表現しています。


             今日聖書」 ヨハネの手紙 第一 3章13〜18節

 

 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。

 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

 

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日本二十六聖殉教者天主堂(大浦天主堂)

 

 「大浦天主堂」は、1865年に建てられ、現存する日本最古の木造ゴシック建造物で、1953年に国宝に指定され、2018年には世界遺産に登録されています。正式名には「日本二十 六聖殉教者天主堂」で、天主堂正面が26名のキリシタンが処刑された長崎西坂の丘に向けて建てられています。

 

 鎖国によって国を閉ざしていた江戸幕府の主なる目的は「キリスト教の禁止」にありました。明治政府になってもキリスト教の禁止の政策は引き継がれ、キリシタン禁制が解かれたのは明治6年(1873年)になってからです。当初この地で働きを始めたフランス人のプチジャン神父は、弾圧の中をくぐり抜けてきた信徒たちを捜しましたがなかなか見つけることができませんでした。

 

 しかし天主堂が建てられた1865年、浦上村から十数名の男女が「南蛮寺見学」にやってきて、そのうちの一人の女性が祈っていたプチジャン神父に近づき、「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ(私たちは皆、あなたと同じ心です)」と、キリスト教信仰をもっていることを告白したのです。彼らは江戸幕府による激しいキリシタン弾圧の中でも信仰を持ち続けた人々の子孫でした。このニュースは、プチジャン神父からローマに報告され、250年ぶりの「信徒発見」「東洋の奇蹟」として世界中に伝えられました。

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 プチジャン神父
 
 その後信徒たちは、自分たちがキリスト教信仰をもっていたことを公表し檀家を離脱するに及んで、幕府はこれを見過ごすことが出来ず、浦上村の中心人物68名を捕らえ、拷問し改宗を迫るという弾圧を始めるのです。

 幕府崩壊後、明治政府においてもこの弾圧は続き、明治維新の立役者の一人でもある木戸孝允(桂小五郎)は、「巣窟であるキリシタンの村を一掃し、住民を名古屋以西の10万石以上の諸藩に配分し、改宗させるため、藩主には生殺与奪の権限を与える」という政策を提案します。これが受け入れられ、1868年、浦上村の信徒たち3394名は根こそぎ流罪にされ、鹿児島、萩、福井、高知、名古屋など21藩22箇所で、拷問と棄教を迫られました。その結果611名が命を落とすという「浦上四番崩れ」と呼ばれる、明治政府による大迫害の記録として歴史に刻まれることになったのです。

 この事件は世界中から非難と抗議を受けました。木戸孝允自身も各国と結んだ不平等条約の改正のために、岩倉具視使節団の一員として1971年(明治4年)からアメリカとヨーロッパ諸国を訪問しましたが、キリスト信徒の弾圧を行い、信教の自由を認めない野蛮な国で近代文明国家とほど遠い国であると、行く先々で抗議を受けて条約改正どころではありませんでした。そこでついに、「流刑にした人々を開放し、信教の自由を認めなければ条約改正は期待できない」と東京に打電することになります。

 1873年(明治6年)、ついに明治政府は信徒たちの解放を決定し、キリスト教禁止令を廃止するのです。流刑によって家族はバラバラになり、重労働や改宗を迫る激しい拷問を受けながらも、大半の信徒たちは信仰を守り通しました。「改心(棄教)」して一足早く故郷に戻った者も、「改心もどし」をし、信仰を回復したといわれています。彼らは流刑された日々を「旅」と呼んで「旅の話」を子孫に語り継ぎました。

 「大浦天主堂」と言えば、キリシタン弾圧を絶え抜いて来た「信徒たちの発見」という事実だけがクローズアップされていますが、実は信徒たちの発見の後に起こった出来事と、彼らの信仰のほうがもっと大きな出来事だったのです。

 

「浦上四番崩れ」高木仙右衛門の体験談
 

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 明治政府による「浦上四番崩れ」と呼ばれる大迫害により、津和野に流刑にされ、拷問と棄教を迫られたにも関わらず、信仰を守り通した農民の一人に高木仙右衛門という人物がいます。浦上四番崩れに関する自身の津和野での体験談「仙右衛門覚書」を遺しています。この体験談の中の役人とのやり取りを読むと、信仰から出てくる「知恵」のすばらしさを感じさせ、まるで新約聖書の「使徒の働き」を読むような思いがします。


役人 「キリシタンというものは何をするか。お前たちは日本の宗旨に従うようにせよ」
仙右衛門 「信仰する者は天地の御主、御作者なる天主です。また日本の宗旨に従っているのであれば、捕らえられてこのようにここには来ておりません。」

役人 「今、お前たちは、わが親たる天子さまに従わず、異国の教えを信じ、異国の人に従うとのはどうしたことだ。あまりの我がまま、法に従わないあり方ではないか。」
仙右衛門 「私たちがキリスト教を信じているのは、異国の人に従うことではありません。また異国の人のためには信じません。ただ世界中の御主を敬うのです。この御主は、いずれの国をもかえりみてくださるお方ですから、私たちは食べる時にも天主に御礼を申し上げるのです。」
 

役人「そうであるなら、お前たちの言う天の主が、お前たちに食べ物も何もかも、直接与えてくれるのだから、食べ物が足りないなどと我々に願って言う必要はないだろう。」
仙右衛門 「私たちはそのような力のある者ではありませんので、このようにお願いに来ています。また、天主のお計らいで、天子さまから食べ物を与えられているのです。それができなければ、食べないでいます。」

 1873年2月24日、明治政府はキリシタン禁制の高札を撤去し、これにより高木仙右衛門は解放され浦上に戻りました。そして赤痢患者の救護活動、孤児救済事業、最初の浦上天主堂建設などで中心的な働きをする人物となり、75歳で天に召されています。

※役人と高木仙右衛門のやりとりの一部は、現代的表現に直しています。 

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旧浦上天主堂と石像などの遺構
 

 今日の聖書」 使徒の働き 4章13~15節


 「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
 

 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。
 


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 私の住むマンション前には桜並木があります。引っ越した当初は春になると桜並木を通って自宅に戻ることができて喜んでいたのですがよくつまづきました。桜の木が植えられている歩道に土のスペースが少なく、水を求めて根が遠くに伸びてあちこちが盛り上がっていたからです。そこで、根上がり部分に注意をしながら歩きましたが、歩道の整備を市に要望したほうが良いのではないかと思い始めたのです。しかし一年ほど過ぎると、つまづかなくなっている自分に気づきました。知らず知らずのうちにズリ足ではなく足首のスナップを効かせる歩き方になっていたのです。

 「人は転ぶと、まず石のせいにする。石がなければ坂のせいにする。そして坂がなければ、履いている靴のせいにする。人はなかなか自分のせいにはしない」というユダヤの格言がありますが、自分が変わることによって、乗り越えられる困難もあるようです。

 現在、自宅前の歩道の地面には「根上がりがありますのでご注意ください」という大きなイラスト入りの注意書きがプリントされています。いくら歩道を整備しても水を求める桜の根はこれからも太くなり、歩道に変化を与え続けるようなので歩き方を変えるしかないようです。

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さすが弘前公園は桜の木の土のスペースがたっぷりなので歩道に根上がりはありません

「今日の聖書」コリント人への手紙第二 4章16−18節

  

 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。




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 時々見るテレビの国会中継で、国権の最高機関である国会の論戦が、議論の内容よりも攻撃的な言葉が飛び交うだけの場になり、議論の仕方を倣いたいと思えるような場にはなっていないことがあります。その原因のひとつに、本来品位を持って語るべきはずの立場の人までもが品位のかけらもないヤジを発し、ユーモアが微塵も感じられない論戦になっていることが多いからです。

 

 私自身がユーモアの大切さを教えられたのは、多くの論客が集まっている大きな会議に出席している時でした。議論が熱を帯び、対立的な空気が議場を支配しはじめた時です。老年の牧師が立って説得力に満ちた意見を出されたのです。その後議長は、同時に挙手をしていたラルフ・カックス宣教師を次の発言者に指名しました。西日本を中心に活躍されていたカックス宣教師は立って、「私の意見は先ほどの意見と同じ意見です。それを少し下手な日本語で言うつもりでした」と発言されたのです。すると議場は爆笑で包まれ、それまでの対立的な空気が一変して和やかになり、会議はスムーズに進んでいったのです。
 

 まじめに激しく議論することは決して悪いことではありません。しかし私たちの日常の生活において、そのまじめさが、ある場合には余裕を失わせ、ぎしぎしした人間関係にさせてしまうことがあります。そんな時、自分を客観化し、ユーモアを用いて議場の空気を変えてしまったあのカックス宣教師のことを、私はいつも思い出すのです。
 

ラルフ・カックス宣教師

ラルフ・カックス宣教師の生涯を記した夫人の著書


「今日の聖書」 箴言10章 12~13節

 憎しみは争いをひき起こし、愛はすべての罪をおおう。悟りのある者のくちびるには知恵があり、思慮に欠けた者の背には杖がある。
 

ハナミズキ


 多くの人に愛され、カラオケなどでもよく歌われている「ハナミズキ」という曲があります。この曲のサビの部分、「薄紅色の可愛いい君のね 果てない夢がちゃんと終わりますように 君と好きな人が百年続きますように」は、多くの人の心をつかみ、祈りにも似た思いを込めて歌う人が多いようです。しかし現実には百年続くどころか、三年も続かないケースがあり、なかなか現実は願い通りにはいきません。

 

 人が好きな人を選ぶ場合、意識的であろうがなかろうが、「やさしい」「性格が良い」「好みの外見」などの条件づけがなされています。しかし、そのように選んだはずの好きな人が、自分の選んだ条件を失ってしまったり、期待はずれであったりすると、嫌いになったり関係が崩れてしまうことがあるのです。

 

 1974年、ドラフト外で長嶋巨人軍に入団し、江川卓投手らと共に活躍した西本聖(にしもと・たかし)投手がいます。西本夫人は美人ということで有名でしたが、1981年に自宅台所のガスが爆発し大火傷を負いました。幸いにその火傷も回復し退院するとき語った言葉が新聞で紹介され大きな感動を呼びました。

 

 「退院できて何が一番うれしかったですか」という記者の問いかけに西本夫人は、大やけどで入院し、顔に包帯がぐるぐると巻かれているときに夫がやって来て、「おまえがどんなになってもオレは決して捨てない!」という言葉をかけてくれたことだと答えました。外見がどうなろうと夫は変わらずに自分を愛し続けてくれていることを知った喜びはどんなに大きかったことでしょうか。このあと西本投手は開幕投手に指名され、勝利投手となります。そのウイニングボール持って夫人の入院している病院に向かい、ボールを手渡したという感動的なエピーソードが残っています。

 

 多くの場合、好きな相手に愛される資格や価値がある場合は愛され続ける。しかしその価値が失われたとき、見向きもされなくなり、関係も続かなりやすいものです。しかし、神の愛の選びの基準は、その選ばれる者が、神の愛に値する価値をもっているかどうかという基準ではなく、神の愛による一方的な選びです。神の愛と選びは百年どころか、永遠に続くゆるぎないものです
 

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一青窈 初のフリーライブ「BESTYO Free CONCERTYO」が行われたよみうりランド

 「今日の聖書」 ローマ人への手紙 5章6〜8節
  実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

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