いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサロニケ5章16〜18節


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 3月17日の朝、Googleの検索バーの上のイラストを見て「Google」の文字がイラストになっていたので、不思議に思いクリックしてみると「
聖パトリックの祝日」の検索リストが出てまいりました。

 そのリストの中の一つに次のような説明がありました。
「アイルランドにキリスト教を広め、アイルランドの守護聖人である聖パトリックの命日であり、キリスト教における聖人の記憶日である聖名祝日」(雑ネタ手帳より)

聖パトリックデー
画像:Leandee Club

 この日、アイルランドでは国花である「三つ葉のクローバー」を服につけるというのですが、なぜ三つ葉のクローバーなのかは、ネットではあまり紹介されていません。実は、三つ葉のクローバーであることは、聖書と深い関わりがあるのです。

 アイルランドにキリスト教を伝えたパトリックは、三つ葉のクローバーを見て新約聖書のコリント人への手紙13章13節にある、
いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」というメッセージを伝えました。そして四つ葉は、キリストの十字架を思い浮かべることができるので、「幸運」のしるしとして教えたようです。


 最初、弘前公園で何枚もの四つ葉のクローバーを発見し、幸せな気持ちになりましたが、パトリックが三つ葉のクローバーを見て「信仰、希望、愛」という聖書のメッセージを伝えたということを知って、「三つ葉のクローバー」の価値をあらためて知らされました。何としてでも福音のメッセージを伝えようとしたパトリックの宣教スピリットを見る思いです。

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 「今日の聖書」 コリント人への手紙第一 3章12~13節 
 
 

 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」


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  きよしこの夜 星は光り

  救いの御子は まぶねの中に

  ねむりたもう いとやすく



 讃美歌「きよしこの夜」といえば、クリスマスが近づけばあちこちから流れ、多くの人が耳にして歌うこともできる有名な讃美歌です。この曲が誕生したきっかけは、オーストリアのオーベルドルフという村で一八一八年のクリスマス間近に起こったある出来事でした。

 ある日の午後、教会のオルガン奏者であったグルーバーは、大事なクリスマス礼拝のため、奏楽の練習をしておこうと教会に出かけ、オルガンのペダルを踏みました。しかしどうしたことか、オルガンからはさっぱり音が出ません。調べてみると、空気ぶくろに穴が開いていたのです。原因は、ねずみがかじったからだとわかりました。すぐに修理などとてもできません。大切なクリスマスの礼拝を前に、大変なことになったのです。

 そこへ、ヨセフ・モーア牧師がやってきました。奏楽者であり、教会学校の校長でもあったグルーバーからこの事態を聞いたモーア牧師は、しばらく思案したあとで次にように言いました。

 「グルーバー先生。オルガンがだめなら、ギターがあります。これは私がつくった詩ですが、先生、ギターで歌えるように、曲をつけてください。」

 その詩は、前日、モーア牧師が、赤ちやんの生まれた山小屋の家族を見舞ったあと、雪あかりの中を下山したとき、あまりの静けさと、滑らかな美しさに深く感動して書かれたものでした。詩を読んでいくうちに、グルーバーの心に、熱いものがこみあげてきました。そして一気にできあがったのが、讃美歌の名曲「きよしこの夜」でした。

 クリスマス礼拝の当日、凍りついた雪を踏みしめ、教会に集った村の人たちは、生まれてはじめて、オルガンなしの礼拝を経験しました。ところが、ギターとともに聖歌隊が歌うこの賛美歌の、シンプルな美しさに深く感動したのです。


 やがてオルガンの修理のためにやって来た調律師によって、周辺の町や村にこの楽譜は持ち運ばれ、ジレルタルの谷間に流れた「きよしこの夜」の歌は、歌いつがれて、世界中の人々に歌われる有名な讃美歌となったのです。

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今日の聖書 ヨハネの福音書 1章14節

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 

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 ユダヤ人の
マービン・トケイヤー氏は、ラビとして来日し、日本文化とユダヤ文化の比較研究をし、日本語で数多くの著書を出版しています。トケイヤー氏の著書のひとつ、「ユダヤ格言集」の中には、「老人を大切にせぬ若者には、幸福な老後は待っていない」というテーマで、冒頭に次のような老人の「あるある」的なユダヤ人ジョークを紹介しています。


 人から「お若いですな」といわれたら、老年に入った兆しである。
 つぎに、もっと年をとると、トイレに入ってから、ズボンのチャックを上げるのを忘れるようになる。そして、さらに年を取ると、チャックを下ろすのを忘れるようになる。


 別の著書では、
人間は究極的には、何をするか(What I do)、ということよりも、何であるか(What I am)、ということが重要であるはずだ」と語っています。

 

 生きていく中で、何をするかといことは重要なことですが、ただ若さや活動力だけが評価される社会は不幸な社会です。なぜなら、そのような社会には必ず敗北が待っています。どんなに社会的に活躍した人でも老年を迎え、若い時のようには活躍できなくなる日が必ずやって来るからです。

 老人を見て、「クソじじい」「クソばばあ」と嘲る若者は、年老いて自尊心を持って生きることなどできません。トケイヤー氏は、「老人が大切にされている社会には落ち着きがある」「悲惨な老年を送りたくなかった、老人を敬うことだ」と著書の中で語っています。さすが、根底に旧約聖書の知恵がある「ユダヤ人ラビ」と思わせる言葉です。

 

 何をするか(What I do)というだけの価値観ではなく、何であるか(What I am)」という価値基準を持つことが、年齢を重ねても生きがいを失うことなく生きる秘訣です。

 老年になって、自分に対して周りがどのような評価をしようとも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43章4節)とみなしてくださる創造主を知っているなら、そのお方の前で自分は「何であるか(What I am)ということが大切になってくるのです。

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  今日の聖書 イザヤ書46章3-4節

 

  わたしに聞け、

  ヤコブの家とイスラエルのすべてののこりの者よ。

  胎内にいる時からになわれており、

  生まれるまえから運ばれた者よ。

  あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。

  あなたが白髪になっても、わたしは背負う。

  わたしはそうしてきたのだ。

  なお、わたしは運ぼう。

  わたしは背負って、救い出そう。

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 「大浦天主堂」は、1865年に建てられ、現存する日本最古の木造ゴシック建造物で、1953年に国宝に指定されました。正式名には「日本二十 六聖殉教者天主堂」で、正面が26名のキリシタンが処刑された長崎西坂の丘に向けて建てられています。


 鎖国によって国を閉ざしていた江戸幕府の主なる目的は「キリスト教の禁止」にありました。明治政府になってもキリスト教の禁止の政策は引き継がれ、キリシタン禁制が解かれたのは明治6年(1873年)になってからです。当初この地で働きを始めたフランス人のプチジャン神父は、弾圧の中をくぐり抜けてきた信徒たちを捜しましたがなかなか見つけることができませんでした。


 しかし会堂が建てられた1865年、浦上村から十数名の男女が「南蛮寺見学」にやってきて、そのうちの一人の女性が祈っていたプチジャン神父に近づき、「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ(私たちは皆、あなたと同じ心です)」と、キリスト教信仰をもっていることを告白したのです。

 彼らは江戸幕府による激しいキリシタン弾圧の中でも信仰を持ち続けた人々の子孫でした。このニュースは、プチジャン神父からローマに報告され、250年ぶりの「信徒発見」「東洋の奇蹟」として世界中に伝えられました。

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プチジャン神父


 その後信徒たちは、自分たちがキリスト教信仰をもっていたことを公表し檀家を離脱するに及んで、幕府はこれを見過ごすことが出来ず、浦上村の中心人物68名を捕らえ、拷問し改宗を迫るという弾圧を始めるのです。

 幕府崩壊後、明治政府においてもこの弾圧は続き、明治維新の立役者の一人でもある木戸孝允(桂小五郎)は、「巣窟であるキリシタンの村を一掃し、住民を名古屋以西の10万石以上の諸藩に配分し、改宗させるため、藩主には生殺与奪の権限を与える」という政策を提案します。

 これが受け入れられ、1868年、浦上村の信徒たち3394名は根こそぎ流罪にされ、鹿児島、萩、福井、高知、名古屋など21藩22箇所で、拷問と棄教を迫られました。その結果611名が命を落とすという「浦上四番崩れ」と呼ばれる、明治政府による大迫害の記録として歴史に刻まれることになったのです。


 この事件は世界中から非難と抗議を受けました。木戸孝允自身も各国と結んだ不平等条約の改正のために、岩倉具視使節団の一員として1971年(明治4年)からアメリカとヨーロッパ諸国を訪問しましたが、キリスト信徒の弾圧を行い、信教の自由を認めない野蛮な国で近代文明国家とほど遠い国であると、行く先々で抗議を受けて条約改正どころではありませんでした。そこでついに、「流刑にした人々を開放し、信教の自由を認めなければ条約改正は期待できない」と東京に打電することになります。

 1873年(明治6年)、ついに明治政府はこの処分を撤回し、信徒たちの解放を決定し、キリスト教禁止令を廃止するのです。流刑によって家族はバラバラになり、重労働や改宗を迫る激しい拷問を受けながらも、大半の信徒たちは信仰を守り通しました。「改心(棄教)」して一足早く故郷に戻った者も、「改心もどし」をし、信仰を回復したといわれています。彼らは流刑された日々を「旅」と呼んで「旅の話」を子孫に語り継ぎました。

 「大浦天主堂」は、キリシタン弾圧を絶え抜いて来た「信徒たちの発見」という事実だけがクローズアップされていますが、実は信徒たちの発見の後に起こった出来事と、彼らの信仰のほうがもっと大きな出来事だったのです。

 

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日本二十六聖人記念館


「今日の聖書」 ヘブル人への手紙 11章13~16節


 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。


 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

朝の祈り 林竹治郎
「朝の祈り」林竹治郎(1871-1941)第一回文展入選作(1906作)北海道立美術館蔵

 上の絵は、林竹治郎画伯が第一回文展に応募し入選した「朝の祈り」という絵です。毎朝、家族で聖書を読み祈っている「家庭礼拝」の風景が描かれていますが、このモデルとなったのは敬虔なクリスチャンであった林竹治郎画伯自身の家族です。 

 母のひざに伏して祈っている三歳ほどの男の子は、後に北大医学部一期生として入学し、卒業後は医師として「救ライ(ハンセン病患者救済)」の働きのために生涯をささげた林文雄博士です。

 敬虔なクリスチャンであった両親は、清貧の中から息子を医学部に学ばせ、卒業してやれやれと思ったら、本人は「最も人の手の足りないところ、もっとも人が嫌がるところ、そして最も苦しむ人々のために生きよう」と、
ハンセン病患者救済のための医師としての道を歩み始めました。

 当初、林竹治郎画伯は、息子が
救ライ活動(ハンセン病患者救済)の医師になることを大反対していました。しかし晩年には、住んでいた札幌から鹿児島の国立ライ療養所「星塚敬愛園」の初代園長の立場にあった息子のもとに移り住み、共に住みハンセン病患者救済のために自分の絵を売ってクリスチャンである息子の働きを側面から支えました。そして、「楽園」と呼んでいた息子の家でその生涯を終えました。

 鹿児島の星塚敬愛園には、 1935年10月5日から1944年2月9日まで園長をつとめていた林文雄博士を記念した石碑があり、その中央には
林竹治郎画伯の「朝の祈り」のレリーフ(下の写真・星塚敬愛園ホームページから)がおさめられています。

 なお、林文雄博士は、ハンセン病の病型分類に大きく貢献し、世界的にも評価された研究者としても知られています。南九州、奄美、沖縄などのハンセン病患者救済のために活動し、理想の療養所建設に力を注いでいましたが肺結核で倒れ、1947年7月18日に天に召されました。
林文雄記念碑

星塚敬愛園ホームページ

今日の聖書」 マタイの福音書25章347~40節

 

 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
 

 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
 

 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

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 言葉は不思議なもので、人を生かすこともできるし、殺すこともできます。

 

 幼い頃に褒められた言葉がいつも心に残り、その言葉が人生の困難な局面でよみがえり、再び前進する力となることもあります。反対に、人を傷つける言葉がその人の夢を打ち砕き、絶望に追いやることもあります。特に、ネット時代には匿名で簡単に人を傷つける言葉を書き込むことができるために、数多くの悲しい事件が起こっています。

 新約聖書ヤコブの手紙には、「もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です」と書かれていますが、何気なく語った言葉が思わぬ波紋を起こすのは、日常生活の中でよくあることです。

 言葉で傷つくことが多い日常で、レテー・B・カウマンの「中傷を忘れなさい」という詩は、なぜか心に迫ってきます。この詩の中には、「忘れなさい」「笑ってすませなさい」という言葉が繰り返されます。このように語る背景に、決して人間を見捨てることのない神の存在を覚えているからでしょう。

 彼女は宣教師として日本に大きな足跡を残した方です。著書「
荒野の泉」は、一九二五年に世界十二カ国語に翻訳され出版されました。今でも聖書と共に彼女のメッセージに接している人々が大勢おられます。その理由は次のメッセージをお読みになればお分かりになると思います。彼女のように人を生かす言葉を語りたいものです。

 

 「中傷を忘れなさい」

 
 試みられた時耳に残る
中傷を忘れなさい。

 荒々しい、思いやりのない言葉を忘れなさい。

 口論やその原因を忘れなさい。

 忘れるのが何よりです。

 

 昨日の嵐を忘れなさい。

 白髪がまじってきたのを忘れなさい。

 しかし、一日の終わりに神を忘れてはいけません。

 

 争いにまけても、
 あなたの権利をごまかされても、
 笑ってすませなさい。

 

 ささいなことで悲しまず、

 小さなことで大騒ぎをせず、

 笑ってすませなさい。

 

 仕事をこじらせ、

 追いつめられてはいませんか。

 笑ってすませなさい。

 気を確かにもちたいなら、

 笑いにまさるものはありません。

 笑ってすませなさい。

 

 神はあなたがたをかえりみてくださるのですから、

 自分の思い煩いを、一切神にゆだねなさい。

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今日の聖書 ピリピ4章6~7節 


 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、
 あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
 あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

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 私がロンドンの大英博物館(British Museum)を訪れたのはもう25年ほど前のことになります。入館したとき、あのロゼッタ・ストーンがケースにも入れられず展示されているのを見て、てっきりレプリカかと思いました。まさか本物がここに無造作に展示してあるはずはないと思い、そこにおられた警備員に確かめると本物であるというのです。ほんとうに驚きました。

 

 ロゼッタ・ストーンと言えば、決してして外国に貸し出すことのない大英博物館の至宝です。それが手を伸ばせばすぐに触ることのできる無造作とも思える展示方法だったので驚きました。さすがに現在はケースに入れられ縦に展示されているようです。(下の写真)

ロゼッタストーン 
ゼッタ・ストーンは、1779年ナポレオンのエジプト遠征で要塞を築く際、他の石とは異なる石が出てきたので、多分考古学的に重要なものではないかと気付いた兵士が、要塞を築く石材から除外しました。このことにより、この石がロゼッタ・ストーンの歴史的な大発見であることが分かったのです。

 

 ロゼッタ・ストーンの発見により、それまでは解読不能であった古代エジプト文字(ヒエログリフ)の解読競争が始まりました。解読につながった理由は、エジプト語と共にギリシャ語でも同じ内容が刻まれていたことにより、1803年、ギリシヤ語の翻訳がなされ、それからさらに研究が続けられ、約20年後の1822年、エジプトの古代文字であるヒエログリフが遂に解読されることになったのです。このことによって、他のエジプト古代文書が次々と翻訳されることなり、エジプトの歴史がさらに明らかになってきました。

 

 どんなに重要なものであったとしても、無関心な人々がそれを手にした場合、それが重要なものと見なされずに葬り去られてしまいます。ですから、要塞を築く石を集めている中で、明らかにロゼッタ・ストーンが他の石とは違うことに気づいた兵士の功績は大きかったと言えます。


 ロゼッタストーンに記された日本語での詳しい内容を知りたい方は以下のサイトが有益です。http://www.moonover.jp/bekkan/hiero/


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 古代エジプト人は古代エジプト文字ヒエログリフを三千数百年書き続けたが、一世紀を境にあまり書かれなくなくなり、読み方も書き方も忘れ去られてしまっていた。

今日の聖書 歴代誌第二 34章14~18節

 

 彼らが、主の宮に携え入れられていた金を取り出していたとき、祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された主の律法の書を見つけた。ヒルキヤは書記シャファンに知らせて、「主の宮で律法の書を見つけました」と言った。ヒルキヤがその書物をシャファンに渡すと、シャファンは、その書物を王のもとに携えて行き、さらに王に次のように報告した。「しもべたちに委ねられたことは、すべてやらせております。彼らは主の宮にあった金を取り出して、これを監督者たちの手と、工事をしている者たちの手に渡しました。」

 さらに書記シャファンは王に告げた。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」シャファンは王の前でそれを朗読した。王は律法のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。

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 今年の4月12日はイースター記念礼拝でした。イースターは、クリスマスと並んで大きな喜びをもって集う礼拝です。しかし、今年は新型コロナウイルス拡大防止のために松見ケ丘キリスト教会では、会堂での礼拝を中止することにしました。

 教会に集って一緒に礼拝することを楽しみにしていた方々は、家庭において個人礼拝をし、ウエブにアップした牧師の礼拝メッセージを聞いて礼拝を守った方々が多かったようです。松見ケ丘キリスト教会の会堂には誰も集まってはいないのですが、日曜日の朝、たまごをモチーフに復活を記念するリースが飾りつけられていました。フラワーデザインをなさっているMさんの作品です。

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 たまごは昔からイースターと結びつけられて用いられていたようです。現在でもイースターが近くなると教会学校の教師の方々はこどもたちのためにゆで卵を作り、卵の表面を食紅で染めたり楽しい模様のあるセロファンを用いたものをこどもたちにプレゼントします。またそのたまごを教会のあちこちに隠し、「たまご探しゲーム」などをしてイースターを祝います。

 ひよこがたまごの空を破って誕生する様子は、十字架につけられ殺され墓におさめられたイエス・キリストが、三日目に死からよみがえって墓から出て来たことを思い起こさせます。教会に集うこどもたちはイースターといえば、「イースターエッグ」を思い起こすはずです。来年のイースターには教会に一緒に集い、イースターエッグを手に持ちイースターを祝うことを楽しみにしています。

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会堂正面に飾られたイースタリース
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イースターには教会の庭にある桜の木は葉桜になっていました
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でも、少し前までは見事な花を咲かせていました

今日の聖書 Ⅰコリント15:16〜22

  もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。



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北村徳太郎(着席左)アデナウアー首相(着席右)1950年
 

 北村徳太郎といえば、片山内閣の運輸大臣、芦田内閣の大蔵大臣を歴任し、日ソ貿易などで多くの功績を残し、後の日本のリーダーらに影響を与えた人物として知られています。

 彼は1886年京都に生まれ、銀行員としてスタートし、播磨造船所支配人を経て、佐世保商業銀行頭取、佐世保商工会議所会頭など経済の分野で大きな功績を残しますが、最初勤めていた銀行が倒産し、播磨造船の事業と関係していた鈴木商店の面接を受けたとき彼はこのように答えます。

 「わたしは仕事の好き嫌いは言いません。これをやれとお命ぜられるなら、わたしが不得手なことでもやります。ただ私はクリスチャンですから、神の御旨に反すること、私の良心が許さないことは絶対にやりません。このことを承知しくださって何でも命じていただきたいのです」。

 人事課長はこの答えが気に入り徳太郎を採用しました。その後、播磨造船の事務課長として事業の拡大に貢献し、やがて実業家としても政治家としても、「時代の良心」と言われるほどのなくてはならない存在となるのです。

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 北村徳太郎は、子どもの頃からだが弱く、少年時代のほとんどを病床で過ごし、友だちと一緒に遊びかけずりまわった経験がほとんどなかったと言われています。また、家では5年間に6度も葬式を出し、二人の兄も若くして亡くなってしまったという経験をします。そこで、死の問題について深く考えるようになり、その解決を求めて読んだ本がロシアの文豪トルストイの本でした。

 そして、トルストイが影響を受けたという聖書を熱心に聖書を読むようになり、やがて教会に通い始めます。それから2年ほどたった夏初めて富士山に登り、詩篇の8篇を読みこの壮大な宇宙と大自然を創造された神を自分という小さな物差しで測ろうとした愚かさに気づくのです。そして無に等しい人間に深い愛情を示されている神を信ずる決心に導かれ、下山して洗礼を受けクリスチャンとして歩み始めるのです。



  あなたの指のわざである あなたの天

  あなたが整えられた月や星を見るに

  人とは何ものなのでしょう。

  あなたが心に留められるとは。

  人の子とはいったい何ものなのでしょう。 

  あなたが顧みてくださるとは。

 若き日に死の問題の解決を求め続けた北村徳太郎は聖書を通して、永遠の世界に導かれ、彼を苦しめていた死の問題の解決に導かれます。その結果、人を恐れない生き方を貫き通すことができたのです。そして彼の通っていた教会での奉仕は来会者のためのスリッパを並べることであり、周りの人々もそれを当たり前のように受け入れていたそうです。


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今日の聖書 ヨハネの福音書11章25~26節

 

  イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。


クンツ宣教師夫妻
クンツ宣教師夫妻


 松見ヶ丘キリスト教会でご奉仕くださった
プリスキラ・クンツ宣教師のご両親も宣教師として日本に来られた方ですが、父親である
アルトゥール・クンツ宣教師が、日本において宣教師として活動を始めたのは1952年のことでした。

 当時のリーベンゼラー・ミッションは、まだ福音が届いていない農漁村に福音を運ぼうという方針のもとに、茨城県の町や村に熱心に伝道活動を展開したのです。クンツ宣教師もスクーターにまたがり、筑波のふもとの町や村を訪ね、一軒一軒トラクト(キリスト教についてのわかりやすい小さな読み物)を配り、イエス・キリストの福音のメッセージを伝えました。

 

 第一期の宣教活動を終えスイスに帰国した時、日本人宣教の重荷を抱いていたルツ・リンダ神学生との結婚に導かれ、第二期は夫婦として日本に派遣されました。二人の任地は、賀川豊彦が「茨の城の石の岡」と称したほど、当時はキリスト教に対しては固く心を閉ざしていた石岡でした。

 

 大きなテントを張って伝道集会を行う「天幕伝道」から始め、洋裁学校の一室を借りての定例集会、地道なトラクト配布と、福音の種を蒔き続けました。やがてキリスト教に心を閉ざしていた町の中からも、福音を信じてクリスチャンとなる人々が起こされるようになりました。それにともないクンツ宣教師たちに対する妨害活動も激しくなり、「この町から出て行け、さもないと大変なことが起こるー悪魔より」という脅迫状まで届いたのです。

 

 このような脅迫状が届いても単なる脅かしと思っていたところ、洋裁学校での集会に出掛けている間に、宣教師館が何者かによって放火されるという事件が起こったのです。その際、ベッドに寝かしつけられていた二歳のダマリスちゃんが犠牲となり焼死するというクンツ宣教師夫妻にとってはとてもつらく悲しい出来事でした。それは日本人を愛し、はるばる日本にやって来て苦労を重ね、日本人のために仕えてた二人に対してはあまりにもむごい仕打ちでした。

 

 しかしこのような悲しい事件があったにもかかわらず、クンツ宣教師夫妻の日本人を愛する思いは消え去ることがありませんでした。二人は以前と同じようにトラクトを片手に訪問伝道を続けたといいます。次女プリスキラさんと三女のタビタさんは、両親のトラクト配布によく一緒に連れて行かれました。子どもだけを家に残すしことをためらったからです。

 

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 両親に対する二人の姉妹の印象は、日本人を愛して、いつでも福音を伝ようとする姿勢でした。妹のタビタさんは、「母が火事のサイレンの音を嫌がった記憶はあっても、日本人を恨んだ言葉を両親から聞いた記憶がありません」と私に話してくださいました。

 

 1991年9月、クンツ宣教師夫妻は、日本での働きを終えて母国スイスに帰国しました。帰国の際、クンツ宣教師は放火事件を回想して次のように語っています。

 「娘は一粒の麦となったのです。一粒の麦が落ちて死なないならば一粒のままだが、もし死ぬならば、多くの実を結ぶと聖書にありますから。神様は、その大切なひとり子を犠牲にしたのですから、わたしの伝道にも犠牲があったのです。つらかったけれども……」。

 

 それからしばらくの年数が経ち、ご一家の日本での働きが過去の出来事になりつつあった時、スイスで栄養師をしていた次女のプリスキラさんと小学校教師の三女のタビタさんが話し合ったわけでもなく、同時にその仕事を辞め、宣教師として日本にやって来たのです。驚くべきことに、クンツ一家の日本人への愛は一代で途切れることなかったのです。

 

 愛する娘を失うというつらく悲しい事件があったにもかかわらず、親子二代にわたって日本人を愛し続けるクンツ宣教師一家のこれらの事実を私はキリストにある愛の奇跡であると思っています。イエス・キリストが十字架の愛が心に迫っていたクンツ宣教師一家は、そのキリストの愛に倣って日本人を愛し続けたのです。

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「今日の聖書」 ヨハネの福音書1224 
 

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
 一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
 しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

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