いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサロニケ5章16〜18節

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自分の近くにいる人を愛せないとき

 千葉県のある教会の礼拝に出席した時のことです。ひとりのご婦人が立って自分がクリスチャンになるきっかけとなった出来事をお話してくださいました。

 結婚して最初は夫婦二人での生活を始めたのですが、ご主人のご両親が年老いて来たことを理由に一緒に暮らすようになりました。ご両親は一日中テレビにかじりつきリビングを占領するようになり、今まで自由にふるまえた家での生活が不自由なものとなり、そのうちにご両親を憎んでいる自分に気付がついたのです。彼女は自分のいちばん近くにいる人を愛せないでいることに苦しみました。

 そのころ教会に通い始めていたので、聖書を開くと 「すべて疲れて重荷を負っている者はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」というキリストの言葉が目に飛び込んできたのです。そのお言葉の通りに、主イエスのもとに自分の重荷を下ろしたときに、両親に対する自分の見方が変わりました。

 両親を憎んでいる自分のような者のためにも主イエスが十字架にかかって、愛を示してくださったこともわかったというのです。全く重荷や問題が無くなったわけではないけれども、今までのように耐えられない重荷では無くなって、自分の近くにいる人を愛せないという大きな苦しみからも解放されたそうです。

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今日の聖書 エペソ4章32節

 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 

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ナザレ受胎告知教会の「華の聖母子」

華の聖母子 
マリヤの着物の袖をよくみると真珠がはめられいる(拡大)
 
日本人が描いた「マリヤとイエス」

 イエス・キリストの故郷ナザレには、乙女マリヤが天使から受胎告知を受けたという洞窟の上に建てられた「受胎告知教会」があります。この会堂の中には日本人の画家長谷川路可の下絵による「華の聖母子」が展示されています。

 この絵の下絵を描いた段階で長谷川路可は天に召され、弟子たちがその下絵をもとにヴェネツィアの工房を借りて制作し、分割し船便で運んだものをイスラエルの職人たちがこの教会の壁面に貼り付け完成させました。

 イスラエル旅行でこの絵を見た時には、かなり目立つ位置に展示されていたことと、その大きさと、いかにも日本人的な母子像になっているのを見て驚きました。受胎告知教会には、日本だけではなく、世界各国の「マリヤと幼子イエス」の絵が展示されています。

 ギリシャのものはまるでイコンの絵のように伝統的なものになっていましたが、タイや韓国のものは日本と同じく民族衣装をまとっているので、これまでのマリヤと幼子イエスのイメージを覆すものになっています。

 それまで、欧米人の描いたマリヤとイエスは金髪になっているのを見て、白人中心のイエス像だと思っていましたが、日本人の描いたきわめて日本的な聖母子の絵を見ているうち、世界の救い主である主イエスが、それぞれの国の人々のイエス像で描かれることは、何も不思議なことではないと思うようになりました。

 なお長谷川路可は、長崎で殉教した二十六聖人の「三木パウロ」の絵も描いています。雅号の「路可」はカトリックに入信した時の洗礼名が「ルカ」からのもので、本名は「龍三」です。日本におけるフレスコ画やモザイク壁画のパイオニアとしても知られ、長崎にある日本二十六聖人記念館には、二十六聖人の長崎までの旅を描いた「長崎への道」のフレスコ画が展示されています(下の写真)。

長谷川路可「長崎への路」
長谷川路可「長崎への道」日本二十六聖人記念館所蔵(フレスコ画)

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ナザレ「受胎告知教会」
受胎告知教会内部
ナザレ「受胎告知教会」内部(1994年撮影)

今日の聖書」 ルカの福音書 1章26~33節 
 

 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。


 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

淵田美津雄

真珠湾攻撃 淵田美津雄総指揮官の回心

 ハワイの真珠湾攻撃の総指揮官であった淵田美津雄さんの回心の記録「真珠湾からゴルゴタへ」を昨日の弘前福音キリスト教会壮年会で読み、真の平和について考える時を持ちました。

 江田島の海軍兵学校でお前の敵はアメリカだと教えられた淵田美津雄さんは、アメリカに対する火のような敵愾心を抱き、360機編隊の一番機に搭乗し真珠湾を奇襲するのです。1941年12月7日早朝、「トラ・トラ・トラ(われ奇襲に成功せり)」と彼が報じた後、太平洋戦争の火ぶたは切られ、惨劇は4年に渡り繰り返され、1945年8月5日、日本の敗戦によって憎悪に満ちた戦争に幕が閉じられます。

 淵田美津雄さんの回心のきっかけは、アメリカに捕われていた日本軍捕虜からアメリカでの捕虜の取り扱いぶりを聞いてからでした。特に一人のお嬢さんが現れるようになって病人に対する心からの看護に心打たれた捕虜たちが、「どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねました。

 最初は返事をしぶっていましたがあまりにも皆が問いつめるので、やがて答えてくれた返事があまりにも意外でした。「私の両親が日本の軍隊によって殺されましたから‥‥」

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かつての敵同士を結びつけた聖書

 両親が日本軍によって殺されたから、日本軍捕虜に親切にしてやるというのでは話は逆です。詳しく話を聞くと、このお嬢さんの両親は宣教師でフィリピンにいたというのです。やがて日本軍がフィリピンを占領したので、難を避けて北ルソンの山中に逃げていたところ、そこにも日本軍がやって来て両親を発見しスパイの嫌疑をかけ、斬ることになりました。

 「私たちはスパイではない。だがどうしても斬るというなら仕方がない。せめて死ぬ支度をするので30分の猶予をください」と言って、聖書を読み神に祈って斬の座につきました。

 この知らせはアメリカで留守を守っていたお嬢さんのもとに伝えられました。最初は日本軍に対する憎悪で一杯したが、両親が殺される前の30分間の、その祈りは何であったのかを思った時、憎悪から敵を愛する愛へと変えられたというのです。

 淵田美津雄さんが後に聖書を手にして発見した箇所は、ルカの福音書23章34節にあるゴルゴダの丘(処刑場)で主イエスが祈った次の言葉でした。

 「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」

 この言葉を読んだ時に、捕虜の兵隊たちを心からお世話をしていたあのお嬢さんの話が頭にひらめいたというのです。日本人を親の仇として憎しみ恨めば、やがてまた憎しみはもどって来て、争いは果てしなく続くであろう。地上に戦争が起こるのは憎しみが絶えないからだと知ったのです。

 淵田美津雄さんはこのことを知らされた時、目頭がジーンと熱くなり、かつて総指揮官であった男の目から大粒の涙がポロポロと落ちました。それは、燃える敵愾心を抱き戦い続けて来た男が、ゴルゴダの丘のイエス・キリストの十字架を仰ぎ見て、イエス・キリストを救い主として受け入れた時でもありました。 

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今日の聖書」コリント人への手紙第二5章17節


 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

あかし

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スティーブン・メティカフ宣教師

 1952年、一人のイギリス人青年が日本の宣教師となるために日本にやって来た。青年の名はスティーブン・メティカフ。OMF(国際福音宣教会)の宣教師として来日し、金木町、青森市、五所川原市、鯵ヶ沢町、弘前市などで熱心に宣教活動を行い、いくつもの教会の基礎を築いた人物である。


 スティーブンは中国南雲省の山奥にある先住民族が住んでいたリス村で生まれた。彼の両親はこの村でイギリスからの宣教師として働き、それまで医療と呼べるようなものがなかった村に医療院を開設し、ハンセン病患者の手当まで行っていた。

 さらに文字のなかったリス語の書き方を開発し、学校を作りリス語の読み書きと中国語を教え、多忙な生活に追われながら福音を伝えていた。1927年、父は息子が生まれたとき新約聖書の「使徒の働き」第六章を翻訳中だったので、そこに出て来る「信仰と聖霊に満ちた人ステパノ」から、息子を「スティーブン(ステパノの英語読み)」と名付けた。


 スティーブンが宣教師子弟のためのハイスクールで学んでいる14歳の時、当時中国を侵略していた日本軍によって彼の学んでいた校舎は丸ごと接収され、他の学生たちと共にスティーブンも捕虜収容所に送られた。
 

 スティーブンの日本人に対する当時の思いは決して良いものではなかった。日本人の中には、彼が重病の時に様子を見るために屋根裏までやって来て、真心からの心配を示し、治療のための薬を手に入れてくれた「本当の紳士」もいた。しかし、多くの日本兵による残虐な仕打ちによって惨い最期をとげた中国人をしばしば見かけた。同じ殺すにしてもなぜそこまでしなければならないのか。「これが人間のやることなのか」、彼が見聞きすることはとうてい赦せることではなかった。

      

 そのような日本人に対する憎しみの感情を抱いていた時、スティーブンはウェイシェン収容所に移された。そこで彼の人生を大きく変える人との出会いを経験することになる。エリック・リデルとの出会いである。リデルは、1924年のパリ・オリンピック400メートルで金メダルを獲得し、第54回アカデミー賞作品賞を受賞したイギリス映画「炎のランナー」のモデルとなった人物である。
 

 当時、エリック・リデルはスポーツマンとしてのキャリアをすべて投げうって、宣教師として中国で働いていた。しかし中国に侵略して来た日本軍によって捕らえられ、スティーブンと同じウェイシェン収容所に入れられたのである。リデルは妻や子供たちと引き離されていたが、被害者意識のかけらも感じさせなかったという。そして、抑留されている若者たちのためにバイブルクラスを作り聖書を教え、スポーツイベントを開催し、若者たちの精神的なケアをしていた。


 ある時のバイブルクラスで聖書を学んでいる時、若者たちの間で意見の対立が起こった。その聖書の教えとはマタイの福音書「山上の説教」の「自分の敵を愛しなさい」という一節である。若者たちにとって、「敵」という言葉から真っ先に浮かぶのは日本兵であった。中国人に対する日本兵のむごい仕打ちをさんざん見せつけられていたからである。スティーブン自身も両目をえぐり出されて眼球を下に垂らした姿で、市内をリヤカーに乗せて引き回されていた中国人を目撃したことがあった。この頃、彼が目にすること、耳にすることのすべては日本人を憎むに値する出来事ばかりだった。
 

 若者たちの思いが「敵を愛せるはずはない」という結論に傾きかけた時、リデルは次のように語った。

 

 「ぼくたちは愛する者のためなら、頼まれなくても時間を費やして祈る。しかし、イエスは愛せない者のために祈れと言われたんだ。だからきみたちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、君たちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りはきみたちの姿勢を変えるんだ」。

 

  スティーブンはそれまで日本兵のためになど、祈ろうと思ったこともないし、祈りたくもなかった。しかしリデルを心から愛し、彼のようなクリスチャンになりたいと思っていたスティーブンは、その時から思い切って祈り始めたのである。日本兵の振舞いが変わることはなかったが、自分の心に変化が現れて来た。以前はひどい行為を行っている日本兵個人に憎しみを向けていたが、人殺しを何とも思わなくなる「戦争」こそが問題であり、戦争そのものに強い怒りを向けるようになり、悲しみの感情を抱くようになって来た。

 

 また、残酷な行為を行う日本人であったとしても、神に愛されている存在であると思うようになった。イエスは自分を十字架につけた者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と祈られている。日本兵も自分が何をしているのかわかっていない。どれほど神を悲しませているのか気づかないでいる。一日も早く彼らがそのことに気づき、神の愛を知ることができるように願うようになった。「祈ることによって、きみの姿勢が変わる」とは、このようなことだったのかとスティーブンは自分の体験として知ったのだ。


 若者たちに聖書の奥深い真理を教えてくれたエリック・リデルであったが、このときすでに脳腫瘍に侵されていた。彼が天国に旅立つ3週間前、、自分のランニングシューズをスティーブンのもとに持って来て置いていった。それはかなり傷んだシューズであったが、リデルにとっては非常に意味のある競技会で使用した大切なシューズだった。そしてリデルが召された時、スティーブンはこのシューズをはいて他の仲間とともに彼の棺を担ぎ、殺風景な墓地の穴に彼の棺を降ろした。

 

 金メダリストとしてのすべての栄光を捨てて中国に命をささげた男の結末としてはみじめな最期である。しかしリデルの死を通し、スティーブンの心には彼のこれからの人生を決定づける思いが芽生えていた。


 「きっと自分にはやるべき仕事が残っているんだ。神様、もし僕が生きて収容所を出られる日が来たら、きっと宣教師になって日本に行きます。」という祈りであった。その祈りの通りに、25歳になったスティーブンは宣教師として日本にやって来た。

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メティカフ宣教師による弘前福音キリスト教会の岩木川での洗礼式

 スティーブン・メティカフ宣教師の最初の任地は青森県だった。彼の所属していたOMF(国際福音宣教会)の前身は、中国の奥地での伝道活動を重荷としていたCIM(中国奥地伝道団)である。OMFが1951年から青森県や北海道で開拓伝道活動を始めたのは、首都圏に比較して教会が少ないという理由であった。
 

 しかし、青森県に遣わされた宣教師が最初に突き当たる壁は、「津軽弁」であった。すでに2年間、軽井沢で日本語を学んで、ある程度の日本語は話せるようになっていたが、軽井沢で学んだ日本語は、津軽ではほとんど役に立たなかった。そこで再度、津軽弁を学ぶ必要があった。

 後に鯵ヶ沢町への宣教師となったOMF宣教団のジョン・エリオット宣教師によれば、戦後中国から追放され日本にやって来た宣教師たちの最初の拠点は青森県だったが、青森で伝道を開始しても最初に突き当たる高い壁が津軽弁だったので、後に拠点を青森市から札幌に移し、そこに日本語学校を設立したという。

 スティーブン・メティカフ宣教師の津軽弁に関する有名なエピソードとして次のようなものが残っている。

 

 まず最初に、津軽弁で「かねがあ」とは、「食べませんか(くわないか)」と教えられた。ある日家の外から。「ナシかねがあ」と物売りの声がするので、梨を買いに出てみると売っていたのは「茄子」であった。

 今度は「ナスかねがあ」と聞こえたので、今度こそ「茄子」だと思って出てみると「梨」だった。津軽弁ではシとスの発音がっ逆であることをこのとき知った。また、キリスト教の入門的なメッセージを記した「トラクト」を配っていた時、「どうぞお読みになってください」と渡したつもりが、「どうぞお嫁になってください」と言ってしまい驚かれたというエピソードもある。どうも日本語はあまり得意ではなかったようだ。

   それでも金木町、青森市、五所川原市、鯵ヶ沢町、弘前市と宣教を続けていったスティーブン・メティカフ宣教師を見ると、日本人に対する愛とともに津軽への愛を感じる。メティカフ宣教師一家が鯵ヶ沢に住んでいる時、メイドとして3年間働いた片川静子氏の話によれば、子どもたちは英語と完全な津軽弁を駆使していたので、奇妙な感覚に襲われたという。


  2014年6月7日、弘前福音キリスト教会の古くからのメンバーである石澤誠氏のもとにスティーブン・メティカフ宣教師が、天に召されたという連絡がイギリスからあった。86年の生涯であった。日本での働きを終え、イギリスに戻ったメティカフ宣教師は、日本とイギリスの和解のための働きを亡くなるまで続けた。日本軍の捕虜としての苦しみを経験した人々がイギリスの国内に数多く残っていたからだ。そのような彼の生涯を、イギリスの新聞は追悼記事で大きく紹介し、その生き方を紹介した。

 

 「炎のランナー」エリック・リデルが履いていたという運動靴を譲り受けたスティーブン・メティカフ宣教師は、「日本人を愛する」というバトンもエリック・リデルから受け継ぎ、ゴールまで駆け抜けたのだ。


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メティカフ宣教師が天に召されたことを報じるイギリスの新聞「ザ・タイムズ」


 「今日の聖書」 エペソへの手紙2章14~17節 
 
 

 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。


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  パブロ・カザルスと言えば、「無伴奏チェロ組曲」と、すぐにクラッシック音楽ファンに思い起こさせるほど、この曲のすばらしさを世に知らせることになった人物です。

 20世紀最高のチェリストと呼ばれ、当時人々から忘れ去られていたバッハの無伴奏チェロ組曲の古い楽譜をバルセロナの古本屋で見つけ、12年間日夜この曲を研究し弾き続けました。それによって、それまでチェロを弾くときの右手はきゅうくつで不自然な姿勢であった演奏法を
左手の指の動く範囲を著しく拡大できる演奏姿勢に改革し、チェロやヴァイオリンの近代的奏法を確率したと言われています。


 パブロ・カザルスの自伝「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」(朝日選書439)を読むと、カザルスは音楽家としての活動にとどまらず、反ファッシズムの立場を貫き通した人物であることがわかります。ヒトラーがフランス南部を占領するとカザルスはドイツ軍の捕虜となるのです。そしてカザルスは将来逮捕か処刑すべき人物のリストのトップにあげられていたのです。間もなくヒットラーの前で演奏するようにとの要請を受けるのですが、これを断るのです。

 彼がそのような生き方をした背景には母のピラールの影響を受けていたからです。母は弟のエンリケに招集礼状が届いたとき、「エンリケ、お前はだれも殺すことはありません。誰もお前を殺してはならないのです。人は殺したり、殺されたりするために生まれたのではありません。行きなさい。この国から離れなさい。」と語り、弟はアルゼンチンに渡り、11年間も会うことができなくなったのです。


 単に自分の子どもが殺されるのを嫌っていたのではありません。スペインにコレラが流行し、カザルスの住んでいた地区だけでも数千人の人が死んだ時、弟のルイスは「誰かがやらなければならない」と言って、コレラで死んだ人の家に行って、死体を夜中に共同墓地に運んで、伝染の危険が非常に大きかったにも関わらず、母は息子を思い止まらせるような言葉は一言も言わなかったのです。

 「母にとって最高の掟は個人の良心であった」「母は常に原則に従って行動し、他人の意見に左右されることはなかった。己が正しいと確信することを行ったのである。」とカザルスは記しています。

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カザルスの母 ピラール・デフィリョ・デ・カザルス  

 

 戦後、パブロ・カザルスは、アルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer)と共に核実験反対運動に名を連ねます。アメリカを訪問したとき、人々が個人用防空壕をつくり学校では原爆の防空演習をしているという新聞記事を読んで彼はぞっとし、1500万人の人々が死んだ戦争を経験したというのに、「これは狂気の沙汰だ。原爆の唯一の防御は平和でしかないではないか。」と語っています。今も聞かなくてはならないパブロ・カザルスの重要なメッセージです。

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今日の聖書 ローマ人への手紙 14章19節 

 

 そういうわけですから。私たちは、平和に役立つこと、お互いに霊的成長に役立つことを追い求めましょう。



三浦綾子

 もう五十年以上も前のことになりますが、ミッションスクールに通っていた友人から一冊の小説を贈ってもらいました。朝日新聞社から刊行されたばかりの三浦綾子著「氷点」です。「氷点」は。朝日新聞者が募集した一千万円懸賞小説に入選した小説で、懸賞小説の募集要項には、「既成の作家、無名の新人を問わない」とありましたが、実際に入選したのは雑貨屋を営む一主婦ということで大きな話題となりました。その後テレビドラマ化され、放映されるとその時間は銭湯がガラガラになるという社会現象になりました。日本テレビの人気番組「笑点」のネーミングもこの氷点をもじったものです。


 氷点のテーマは「原罪」ということで、人間が生まれついた時にもっている罪のことであるという説明を受けましたが、当時キリスト教には門外漢の私にとってはよく分かりませんでした。しかし氷点を読んで間もなく私は教会に通い始め、その年に洗礼を受けたので、私にとっては忘れることのできない小説となったのです。教会に通うようになり購読するようになった「信徒の友」には、この年から三浦綾子さんの「塩狩峠」が連載され、主人公永野信夫の生き方を通して、キリスト者として生きる姿がどのようなものであるかも知ることができました。氷点

 しかし、それまでの私の生き方を問うことになったのは、同じ友人から勧められた夏目漱石の「こころ」でした。この小説も同じ朝日新聞の連載小説で、テーマは原罪と関わりの深い「エゴイズム」の問題です。小説の語り手である「私」は主人公の「先生」に出会うことから物語が始まるのですが、先生の人生哲学は、「人はいざとなったら自己本位にしか生きることができないので、最終的に信じることができるのは自分しかいない」というものでした。


 これには私も大いに共感できるところがあり、本を読み進めていくうちに衝撃的な最終結論を知ることにななるのです。この「こころ」の読後感として、「これまで最終的に信じることができるのは自分しかいないと思っていたが、その自分をも信じることができないとしたら一体何を信じたら良いのか」ということでした。そのことが聖書に記されている真理を熱心に追い求めることになり、神を信じることにつながるのですから、私にとっての三浦綾子と夏目漱石は、キリスト教信仰への道を照らしてくれた大恩人であると言っても良いかも知れません。

 文芸評論家の佐古純一郎氏は、毎日新聞に連載した「キリスト教と文学」の中で、「キリスト教文学」が鮮明に成立してくるのは二十世紀に入ってからであり、しかもその十九世紀から二十世紀への転換点にたつ作家としてドストエフスキイの存在を挙げています。そして、表現の主体の問題とテーマの問題、さらに素材の問題と表現の視点の問題を挙げていますが、「キリスト教文学」の主体の問題に関しては、「それは、もうはっきりと、『キリスト者』と規定できるように思います。」と記しています。同じくキリスト者で作家の椎名麟三がドストエフスキイの影響を受けて信仰を持つようになったというのも興味深いことです。

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雑貨屋時代の三浦綾子さん


 文学作品は本来作家が読者にもっとも伝えたいモチーフを持っているべきであり、三浦綾子さんは、キリスト者として自らの信仰の立場から、エゴイズムと神の愛の関係、聖書の語る中心的なメッセージと現実の世界との関わりを文学という形式で表現していると言えます。

 三浦綾子さんの文学作品は「純文学」ではなく「護教文学」であると、文学通を自認する一部の人から揶揄されたこともありますが、読者に文学作品のテーマを通して自らの生き方を問い直させ、新しい生き方を示すという点では、彼女の作品の読者にいまだに大きな影響をもたらし続けています。その読者の一人として私も五十年以上前に自らの生き方を問われ、今このようにあるのですから。

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今日の聖書」ヨハネの福音書9章24〜33節

 そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

 彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」

 その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。 私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」



 昨年の「弘前さくらまつり」は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止になり、弘前公園も封鎖になりました。さらに外堀の桜が満開になってもそれをSNSにアップしないようにとのメッセージが出され、弘前公園のさくらを見ることができませんでした。

 

 「今年こそは」と張り切っていたのですが、「まん延防止等重点措置」が出され、県境をまたく往来をしないようにとのメッセージが流され、泣く泣く予約していたホテルを解約しました。私は弘前公園本丸の年間入場パスポートを購入していたので、弘前市から2021年度も入場できる案内が送られて来ていたのですが、それも使うことなく終わってしまいました。

 

 こんな時にお世話になったのは、「東奥日報」のサイトにアップされていた。「弘前公園外堀のサクラ タイムラプス動画で」です。東奥日報社は3月から外堀のサクラをタイムラプス撮影(低速度撮影)というのです。それを6分にまとめているので、徐々にピンクに色づき、途中で雪に覆われ、また開花、花筏となっていく様子を見ることができました。

 しっかりと夜の部分もあり、「夜は長い」と最初は思っていたですが、明るくなるとだんだん桜の木がピンクに色づき、ライトアップもされるようになり、花筏で濠がいっぱいになるなど、みごたえがありました。来年こそは、「弘前公園で見たい!」と思っていますが、コロナ禍で行動が制限されている昨年に引き続き、今年の東奥日報社の動画にも感謝しています。

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 「今日の聖書」 イザヤ書 40章6~13節 
 
 

  「叫べ」と言う者の声がする。

  「何と叫びましょうか」と人は言う。

  「人はみな草のよう。

  その栄えはみな野の花のようだ。

  主の息吹がその上に吹くと、

  草はしおれ、花は散る。

  まことに民は草だ。

  草はしおれ、花は散る。

  しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

 

  シオンに良い知らせを伝える者よ、

  高い山に登れ。

  エルサレムに良い知らせを伝える者よ、

  力の限り声をあげよ。

  声をあげよ。恐れるな。

  ユダの町々に言え。

  「見よ、あなたがたの神を。」

  見よ。 神である主は力をもって来られ、

  その御腕で統べ治める。

  見よ。その報いは主とともにあり、

  その報酬は主の御前にある。


  主は羊飼いのように、その群れを飼い、

  御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、

  乳を飲ませる羊を優しく導く。




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 3月17日の朝、Googleの検索バーの上のイラストを見て「Google」の文字がイラストになっていたので、不思議に思いクリックしてみると「
聖パトリックの祝日」の検索リストが出てまいりました。

 そのリストの中の一つに次のような説明がありました。
「アイルランドにキリスト教を広め、アイルランドの守護聖人である聖パトリックの命日であり、キリスト教における聖人の記憶日である聖名祝日」(雑ネタ手帳より)

聖パトリックデー
画像:Leandee Club

 この日、アイルランドでは国花である「三つ葉のクローバー」を服につけるというのですが、なぜ三つ葉のクローバーなのかは、ネットではあまり紹介されていません。実は、三つ葉のクローバーであることは、聖書と深い関わりがあるのです。

 アイルランドにキリスト教を伝えたパトリックは、三つ葉のクローバーを見て新約聖書のコリント人への手紙13章13節にある、
いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」というメッセージを伝えました。そして四つ葉は、キリストの十字架を思い浮かべることができるので、「幸運」のしるしとして教えたようです。


 最初、弘前公園で何枚もの四つ葉のクローバーを発見し、幸せな気持ちになりましたが、パトリックが三つ葉のクローバーを見て「信仰、希望、愛」という聖書のメッセージを伝えたということを知って、「三つ葉のクローバー」の価値をあらためて知らされました。何としてでも福音のメッセージを伝えようとしたパトリックの宣教スピリットを見る思いです。

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 「今日の聖書」 コリント人への手紙第一 3章12~13節 
 
 

 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」


christmas-自然のツリー雪景色
  きよしこの夜 星は光り

  救いの御子は まぶねの中に

  ねむりたもう いとやすく



 讃美歌「きよしこの夜」といえば、クリスマスが近づけばあちこちから流れ、多くの人が耳にして歌うこともできる有名な讃美歌です。この曲が誕生したきっかけは、オーストリアのオーベルドルフという村で一八一八年のクリスマス間近に起こったある出来事でした。

 ある日の午後、教会のオルガン奏者であったグルーバーは、大事なクリスマス礼拝のため、奏楽の練習をしておこうと教会に出かけ、オルガンのペダルを踏みました。しかしどうしたことか、オルガンからはさっぱり音が出ません。調べてみると、空気ぶくろに穴が開いていたのです。原因は、ねずみがかじったからだとわかりました。すぐに修理などとてもできません。大切なクリスマスの礼拝を前に、大変なことになったのです。

 そこへ、ヨセフ・モーア牧師がやってきました。奏楽者であり、教会学校の校長でもあったグルーバーからこの事態を聞いたモーア牧師は、しばらく思案したあとで次にように言いました。

 「グルーバー先生。オルガンがだめなら、ギターがあります。これは私がつくった詩ですが、先生、ギターで歌えるように、曲をつけてください。」

 その詩は、前日、モーア牧師が、赤ちやんの生まれた山小屋の家族を見舞ったあと、雪あかりの中を下山したとき、あまりの静けさと、滑らかな美しさに深く感動して書かれたものでした。詩を読んでいくうちに、グルーバーの心に、熱いものがこみあげてきました。そして一気にできあがったのが、讃美歌の名曲「きよしこの夜」でした。

 クリスマス礼拝の当日、凍りついた雪を踏みしめ、教会に集った村の人たちは、生まれてはじめて、オルガンなしの礼拝を経験しました。ところが、ギターとともに聖歌隊が歌うこの賛美歌の、シンプルな美しさに深く感動したのです。


 やがてオルガンの修理のためにやって来た調律師によって、周辺の町や村にこの楽譜は持ち運ばれ、ジレルタルの谷間に流れた「きよしこの夜」の歌は、歌いつがれて、世界中の人々に歌われる有名な讃美歌となったのです。

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今日の聖書 ヨハネの福音書 1章14節

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 

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 ユダヤ人の
マービン・トケイヤー氏は、ラビとして来日し、日本文化とユダヤ文化の比較研究をし、日本語で数多くの著書を出版しています。トケイヤー氏の著書のひとつ、「ユダヤ格言集」の中には、「老人を大切にせぬ若者には、幸福な老後は待っていない」というテーマで、冒頭に次のような老人の「あるある」的なユダヤ人ジョークを紹介しています。


 人から「お若いですな」といわれたら、老年に入った兆しである。
 つぎに、もっと年をとると、トイレに入ってから、ズボンのチャックを上げるのを忘れるようになる。そして、さらに年を取ると、チャックを下ろすのを忘れるようになる。


 別の著書では、
人間は究極的には、何をするか(What I do)、ということよりも、何であるか(What I am)、ということが重要であるはずだ」と語っています。

 

 生きていく中で、何をするかといことは重要なことですが、ただ若さや活動力だけが評価される社会は不幸な社会です。なぜなら、そのような社会には必ず敗北が待っています。どんなに社会的に活躍した人でも老年を迎え、若い時のようには活躍できなくなる日が必ずやって来るからです。

 老人を見て、「クソじじい」「クソばばあ」と嘲る若者は、年老いて自尊心を持って生きることなどできません。トケイヤー氏は、「老人が大切にされている社会には落ち着きがある」「悲惨な老年を送りたくなかった、老人を敬うことだ」と著書の中で語っています。さすが、根底に旧約聖書の知恵がある「ユダヤ人ラビ」と思わせる言葉です。

 

 何をするか(What I do)というだけの価値観ではなく、何であるか(What I am)」という価値基準を持つことが、年齢を重ねても生きがいを失うことなく生きる秘訣です。

 老年になって、自分に対して周りがどのような評価をしようとも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43章4節)とみなしてくださる創造主を知っているなら、そのお方の前で自分は「何であるか(What I am)ということが大切になってくるのです。

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  今日の聖書 イザヤ書46章3-4節

 

  わたしに聞け、

  ヤコブの家とイスラエルのすべてののこりの者よ。

  胎内にいる時からになわれており、

  生まれるまえから運ばれた者よ。

  あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。

  あなたが白髪になっても、わたしは背負う。

  わたしはそうしてきたのだ。

  なお、わたしは運ぼう。

  わたしは背負って、救い出そう。

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