いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサロニケ5章16〜18節

三浦綾子

 もう五十年以上も前のことになりますが、ミッションスクールに通っていた友人から一冊の小説を贈ってもらいました。朝日新聞社から刊行されたばかりの三浦綾子著「氷点」です。「氷点」は。朝日新聞者が募集した一千万円懸賞小説に入選した小説で、懸賞小説の募集要項には、「既成の作家、無名の新人を問わない」とありましたが、実際に入選したのは雑貨屋を営む一主婦ということで大きな話題となりました。その後テレビドラマ化され、放映されるとその時間は銭湯がガラガラになるという社会現象になりました。日本テレビの人気番組「笑点」のネーミングもこの氷点をもじったものです。


 氷点のテーマは「原罪」ということで、人間が生まれついた時にもっている罪のことであるという説明を受けましたが、当時キリスト教には門外漢の私にとってはよく分かりませんでした。しかし氷点を読んで間もなく私は教会に通い始め、その年に洗礼を受けたので、私にとっては忘れることのできない小説となったのです。教会に通うようになり購読するようになった「信徒の友」には、この年から三浦綾子さんの「塩狩峠」が連載され、主人公永野信夫の生き方を通して、キリスト者として生きる姿がどのようなものであるかも知ることができました。氷点

 しかし、それまでの私の生き方を問うことになったのは、同じ友人から勧められた夏目漱石の「こころ」でした。この小説も同じ朝日新聞の連載小説で、テーマは原罪と関わりの深い「エゴイズム」の問題です。小説の語り手である「私」は主人公の「先生」に出会うことから物語が始まるのですが、先生の人生哲学は、「人はいざとなったら自己本位にしか生きることができないので、最終的に信じることができるのは自分しかいない」というものでした。


 これには私も大いに共感できるところがあり、本を読み進めていくうちに衝撃的な最終結論を知ることにななるのです。この「こころ」の読後感として、「これまで最終的に信じることができるのは自分しかいないと思っていたが、その自分をも信じることができないとしたら一体何を信じたら良いのか」ということでした。そのことが聖書に記されている真理を熱心に追い求めることになり、神を信じることにつながるのですから、私にとっての三浦綾子と夏目漱石は、キリスト教信仰への道を照らしてくれた大恩人であると言っても良いかも知れません。

 文芸評論家の佐古純一郎氏は、毎日新聞に連載した「キリスト教と文学」の中で、「キリスト教文学」が鮮明に成立してくるのは二十世紀に入ってからであり、しかもその十九世紀から二十世紀への転換点にたつ作家としてドストエフスキイの存在を挙げています。そして、表現の主体の問題とテーマの問題、さらに素材の問題と表現の視点の問題を挙げていますが、「キリスト教文学」の主体の問題に関しては、「それは、もうはっきりと、『キリスト者』と規定できるように思います。」と記しています。同じくキリスト者で作家の椎名麟三がドストエフスキイの影響を受けて信仰を持つようになったというのも興味深いことです。

雑貨屋

雑貨屋時代の三浦綾子さん


 文学作品は本来作家が読者にもっとも伝えたいモチーフを持っているべきであり、三浦綾子さんは、キリスト者として自らの信仰の立場から、エゴイズムと神の愛の関係、聖書の語る中心的なメッセージと現実の世界との関わりを文学という形式で表現していると言えます。

 三浦綾子さんの文学作品は「純文学」ではなく「護教文学」であると、文学通を自認する一部の人から揶揄されたこともありますが、読者に文学作品のテーマを通して自らの生き方を問い直させ、新しい生き方を示すという点では、彼女の作品の読者にいまだに大きな影響をもたらし続けています。その読者の一人として私も五十年以上前に自らの生き方を問われ、今このようにあるのですから。

PA280089 (1)
今日の聖書」ヨハネの福音書9章24〜33節

 そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

 彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」

 その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。 私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」



81adb162-s

スティーブン・メティカフ宣教師

 1952年、一人のイギリス人青年が日本の宣教師となるために日本にやって来た。青年の名はスティーブン・メティカフ。OMF(国際福音宣教会)の宣教師として来日し、金木町、青森市、五所川原市、鯵ヶ沢町、弘前市などで熱心に宣教活動を行い、いくつもの教会の基礎を築いた人物である。


 スティーブンは中国南雲省の山奥にある先住民族が住んでいたリス村で生まれた。彼の両親はこの村でイギリスからの宣教師として働き、それまで医療と呼べるようなものがなかった村に医療院を開設し、ハンセン病患者の手当まで行っていた。

 さらに文字のなかったリス語の書き方を開発し、学校を作りリス語の読み書きと中国語を教え、多忙な生活に追われながら福音を伝えていた。1927年、父は息子が生まれたとき新約聖書の「使徒の働き」第六章を翻訳中だったので、そこに出て来る「信仰と聖霊に満ちた人ステパノ」から、息子を「スティーブン(ステパノの英語読み)」と名付けた。


 スティーブンが宣教師子弟のためのハイスクールで学んでいる14歳の時、当時中国を侵略していた日本軍によって彼の学んでいた校舎は丸ごと接収され、他の学生たちと共にスティーブンも捕虜収容所に送られた。
 

 スティーブンの日本人に対する当時の思いは決して良いものではなかった。日本人の中には、彼が重病の時に様子を見るために屋根裏までやって来て、真心からの心配を示し、治療のための薬を手に入れてくれた「本当の紳士」もいた。しかし、多くの日本兵による残虐な仕打ちによって惨い最期をとげた中国人をしばしば見かけた。同じ殺すにしてもなぜそこまでしなければならないのか。「これが人間のやることなのか」、彼が見聞きすることはとうてい赦せることではなかった。

      

 そのような日本人に対する憎しみの感情を抱いていた時、スティーブンはウェイシェン収容所に移された。そこで彼の人生を大きく変える人との出会いを経験することになる。エリック・リデルとの出会いである。リデルは、1924年のパリ・オリンピック400メートルで金メダルを獲得し、第54回アカデミー賞作品賞を受賞したイギリス映画「炎のランナー」のモデルとなった人物である。
 

 当時、エリック・リデルはスポーツマンとしてのキャリアをすべて投げうって、宣教師として中国で働いていた。しかし中国に侵略して来た日本軍によって捕らえられ、スティーブンと同じウェイシェン収容所に入れられたのである。リデルは妻や子供たちと引き離されていたが、被害者意識のかけらも感じさせなかったという。そして、抑留されている若者たちのためにバイブルクラスを作り聖書を教え、スポーツイベントを開催し、若者たちの精神的なケアをしていた。


 ある時のバイブルクラスで聖書を学んでいる時、若者たちの間で意見の対立が起こった。その聖書の教えとはマタイの福音書「山上の説教」の「自分の敵を愛しなさい」という一節である。若者たちにとって、「敵」という言葉から真っ先に浮かぶのは日本兵であった。中国人に対する日本兵のむごい仕打ちをさんざん見せつけられていたからである。スティーブン自身も両目をえぐり出されて眼球を下に垂らした姿で、市内をリヤカーに乗せて引き回されていた中国人を目撃したことがあった。この頃、彼が目にすること、耳にすることのすべては日本人を憎むに値する出来事ばかりだった。
 

 若者たちの思いが「敵を愛せるはずはない」という結論に傾きかけた時、リデルは次のように語った。

 

 「ぼくたちは愛する者のためなら、頼まれなくても時間を費やして祈る。しかし、イエスは愛せない者のために祈れと言われたんだ。だからきみたちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、君たちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りはきみたちの姿勢を変えるんだ」。

 

  スティーブンはそれまで日本兵のためになど、祈ろうと思ったこともないし、祈りたくもなかった。しかしリデルを心から愛し、彼のようなクリスチャンになりたいと思っていたスティーブンは、その時から思い切って祈り始めたのである。日本兵の振舞いが変わることはなかったが、自分の心に変化が現れて来た。以前はひどい行為を行っている日本兵個人に憎しみを向けていたが、人殺しを何とも思わなくなる「戦争」こそが問題であり、戦争そのものに強い怒りを向けるようになり、悲しみの感情を抱くようになって来た。

 

 また、残酷な行為を行う日本人であったとしても、神に愛されている存在であると思うようになった。イエスは自分を十字架につけた者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と祈られている。日本兵も自分が何をしているのかわかっていない。どれほど神を悲しませているのか気づかないでいる。一日も早く彼らがそのことに気づき、神の愛を知ることができるように願うようになった。「祈ることによって、きみの姿勢が変わる」とは、このようなことだったのかとスティーブンは自分の体験として知ったのだ。


 若者たちに聖書の奥深い真理を教えてくれたエリック・リデルであったが、このときすでに脳腫瘍に侵されていた。彼が天国に旅立つ3週間前、、自分のランニングシューズをスティーブンのもとに持って来て置いていった。それはかなり傷んだシューズであったが、リデルにとっては非常に意味のある競技会で使用した大切なシューズだった。そしてリデルが召された時、スティーブンはこのシューズをはいて他の仲間とともに彼の棺を担ぎ、殺風景な墓地の穴に彼の棺を下ろした

 

 金メダリストとしてのすべての栄光を捨てて中国に命をささげた男の結末としてはみじめな最期である。しかしリデルの死を通し、スティーブンの心には彼のこれからの人生を決定づける思いが芽生えていた。


 「きっと自分にはやるべき仕事が残っているんだ。神様、もし僕が生きて収容所を出られる日が来たら、きっと宣教師になって日本に行きます。」という祈りであった。その祈りの通りに、25歳になったスティーブンは宣教師として日本にやって来た。

dbfd2002-s
メティカフ宣教師による弘前福音キリスト教会の岩木川での洗礼式

 スティーブン・メティカフ宣教師の最初の任地は青森県だった。彼の所属していたOMF(国際福音宣教会)の前身は、中国の奥地での伝道活動を重荷としていたCIM(中国奥地伝道団)である。OMFが1951年から青森県や北海道で開拓伝道活動を始めたのは、首都圏に比較して教会が少ないという理由であった。
 

 しかし、青森県に遣わされた宣教師が最初に突き当たる壁は、「津軽弁」であった。すでに2年間、軽井沢で日本語を学んで、ある程度の日本語は話せるようになっていたが、軽井沢で学んだ日本語は、津軽ではほとんど役に立たなかった。そこで再度、津軽弁を学ぶ必要があった。

 後に鯵ヶ沢町への宣教師となったOMF宣教団のジョン・エリオット宣教師によれば、戦後中国から追放され日本にやって来た宣教師たちの最初の拠点は青森県だったが、青森で伝道を開始しても最初に突き当たる高い壁が津軽弁だったので、後に拠点を青森市から札幌に移し、そこに日本語学校を設立したという。

 スティーブン・メティカフ宣教師の津軽弁に関する有名なエピソードとして次のようなものが残っている。

 

 まず最初に、津軽弁で「かねがあ」とは、「食べませんか(くわないか)」と教えられた。ある日家の外から。「ナシかねがあ」と物売りの声がするので、梨を買いに出てみると売っていたのは「茄子」であった。

 今度は「ナスかねがあ」と聞こえたので、今度こそ「茄子」だと思って出てみると「梨」だった。津軽弁ではシとスの発音がっ逆であることをこのとき知った。また、キリスト教の入門的なメッセージを記した「トラクト」を配っていた時、「どうぞお読みになってください」と渡したつもりが、「どうぞお嫁になってください」と言ってしまい驚かれたというエピソードもある。どうも日本語はあまり得意ではなかったようだ。

   それでも金木町、青森市、五所川原市、鯵ヶ沢町、弘前市と宣教を続けていったスティーブン・メティカフ宣教師を見ると、日本人に対する愛とともに津軽への愛を感じる。メティカフ宣教師一家が鯵ヶ沢に住んでいる時、メイドとして3年間働いた片川静子氏の話によれば、子どもたちは英語と完全な津軽弁を駆使していたので、奇妙な感覚に襲われたという。


  2014年6月7日、弘前福音キリスト教会の古くからのメンバーである石澤誠氏のもとにスティーブン・メティカフ宣教師が、天に召されたという連絡がイギリスからあった。86年の生涯であった。日本での働きを終え、イギリスに戻ったメティカフ宣教師は、日本とイギリスの和解のための働きを亡くなるまで続けた。日本軍の捕虜としての苦しみを経験した人々がイギリスの国内に数多く残っていたからだ。そのような彼の生涯を、イギリスの新聞は追悼記事で大きく紹介し、その生き方を紹介した。

 

 「炎のランナー」エリック・リデルが履いていたという運動靴を譲り受けたスティーブン・メティカフ宣教師は、「日本人を愛する」というバトンもエリック・リデルから受け継ぎ、ゴールまで駆け抜けたのだ。


c320db84-s
メティカフ宣教師が天に召されたことを報じるイギリスの新聞「ザ・タイムズ」


 「今日の聖書」 エペソへの手紙2章14~17節 
 
 

 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。


 昨年の「弘前さくらまつり」は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止になり、弘前公園も封鎖になりました。さらに外堀の桜が満開になってもそれをSNSにアップしないようにとのメッセージが出され、弘前公園のさくらを見ることができませんでした。

 

 「今年こそは」と張り切っていたのですが、「まん延防止等重点措置」が出され、県境をまたく往来をしないようにとのメッセージが流され、泣く泣く予約していたホテルを解約しました。私は弘前公園本丸の年間入場パスポートを購入していたので、弘前市から2021年度も入場できる案内が送られて来ていたのですが、それも使うことなく終わってしまいました。

 

 こんな時にお世話になったのは、「東奥日報」のサイトにアップされていた。「弘前公園外堀のサクラ タイムラプス動画で」です。東奥日報社は3月から外堀のサクラをタイムラプス撮影(低速度撮影)というのです。それを6分にまとめているので、徐々にピンクに色づき、途中で雪に覆われ、また開花、花筏となっていく様子を見ることができました。

 しっかりと夜の部分もあり、「夜は長い」と最初は思っていたですが、明るくなるとだんだん桜の木がピンクに色づき、ライトアップもされるようになり、花筏で濠がいっぱいになるなど、みごたえがありました。来年こそは、「弘前公園で見たい!」と思っていますが、コロナ禍で行動が制限されている昨年に引き続き、今年の東奥日報社の動画にも感謝しています。

スクリーンショット 2021-05-10 22.30.17

スクリーンショット 2021-05-10 22.31.47

 「今日の聖書」 イザヤ書 40章6~13節 
 
 

  「叫べ」と言う者の声がする。

  「何と叫びましょうか」と人は言う。

  「人はみな草のよう。

  その栄えはみな野の花のようだ。

  主の息吹がその上に吹くと、

  草はしおれ、花は散る。

  まことに民は草だ。

  草はしおれ、花は散る。

  しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

 

  シオンに良い知らせを伝える者よ、

  高い山に登れ。

  エルサレムに良い知らせを伝える者よ、

  力の限り声をあげよ。

  声をあげよ。恐れるな。

  ユダの町々に言え。

  「見よ、あなたがたの神を。」

  見よ。 神である主は力をもって来られ、

  その御腕で統べ治める。

  見よ。その報いは主とともにあり、

  その報酬は主の御前にある。


  主は羊飼いのように、その群れを飼い、

  御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、

  乳を飲ませる羊を優しく導く。




スクリーンショット 2021-03-17 9.11.30


 3月17日の朝、Googleの検索バーの上のイラストを見て「Google」の文字がイラストになっていたので、不思議に思いクリックしてみると「
聖パトリックの祝日」の検索リストが出てまいりました。

 そのリストの中の一つに次のような説明がありました。
「アイルランドにキリスト教を広め、アイルランドの守護聖人である聖パトリックの命日であり、キリスト教における聖人の記憶日である聖名祝日」(雑ネタ手帳より)

聖パトリックデー
画像:Leandee Club

 この日、アイルランドでは国花である「三つ葉のクローバー」を服につけるというのですが、なぜ三つ葉のクローバーなのかは、ネットではあまり紹介されていません。実は、三つ葉のクローバーであることは、聖書と深い関わりがあるのです。

 アイルランドにキリスト教を伝えたパトリックは、三つ葉のクローバーを見て新約聖書のコリント人への手紙13章13節にある、
いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」というメッセージを伝えました。そして四つ葉は、キリストの十字架を思い浮かべることができるので、「幸運」のしるしとして教えたようです。


 最初、弘前公園で何枚もの四つ葉のクローバーを発見し、幸せな気持ちになりましたが、パトリックが三つ葉のクローバーを見て「信仰、希望、愛」という聖書のメッセージを伝えたということを知って、「三つ葉のクローバー」の価値をあらためて知らされました。何としてでも福音のメッセージを伝えようとしたパトリックの宣教スピリットを見る思いです。

215e0f3c-s


 「今日の聖書」 コリント人への手紙第一 3章12~13節 
 
 

 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」


christmas-自然のツリー雪景色
  きよしこの夜 星は光り

  救いの御子は まぶねの中に

  ねむりたもう いとやすく



 讃美歌「きよしこの夜」といえば、クリスマスが近づけばあちこちから流れ、多くの人が耳にして歌うこともできる有名な讃美歌です。この曲が誕生したきっかけは、オーストリアのオーベルドルフという村で一八一八年のクリスマス間近に起こったある出来事でした。

 ある日の午後、教会のオルガン奏者であったグルーバーは、大事なクリスマス礼拝のため、奏楽の練習をしておこうと教会に出かけ、オルガンのペダルを踏みました。しかしどうしたことか、オルガンからはさっぱり音が出ません。調べてみると、空気ぶくろに穴が開いていたのです。原因は、ねずみがかじったからだとわかりました。すぐに修理などとてもできません。大切なクリスマスの礼拝を前に、大変なことになったのです。

 そこへ、ヨセフ・モーア牧師がやってきました。奏楽者であり、教会学校の校長でもあったグルーバーからこの事態を聞いたモーア牧師は、しばらく思案したあとで次にように言いました。

 「グルーバー先生。オルガンがだめなら、ギターがあります。これは私がつくった詩ですが、先生、ギターで歌えるように、曲をつけてください。」

 その詩は、前日、モーア牧師が、赤ちやんの生まれた山小屋の家族を見舞ったあと、雪あかりの中を下山したとき、あまりの静けさと、滑らかな美しさに深く感動して書かれたものでした。詩を読んでいくうちに、グルーバーの心に、熱いものがこみあげてきました。そして一気にできあがったのが、讃美歌の名曲「きよしこの夜」でした。

 クリスマス礼拝の当日、凍りついた雪を踏みしめ、教会に集った村の人たちは、生まれてはじめて、オルガンなしの礼拝を経験しました。ところが、ギターとともに聖歌隊が歌うこの賛美歌の、シンプルな美しさに深く感動したのです。


 やがてオルガンの修理のためにやって来た調律師によって、周辺の町や村にこの楽譜は持ち運ばれ、ジレルタルの谷間に流れた「きよしこの夜」の歌は、歌いつがれて、世界中の人々に歌われる有名な讃美歌となったのです。

4c92038ce93713c8aa5310942cd4dbdd_s
 
今日の聖書 ヨハネの福音書 1章14節

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 

_DSC8962

 ユダヤ人の
マービン・トケイヤー氏は、ラビとして来日し、日本文化とユダヤ文化の比較研究をし、日本語で数多くの著書を出版しています。トケイヤー氏の著書のひとつ、「ユダヤ格言集」の中には、「老人を大切にせぬ若者には、幸福な老後は待っていない」というテーマで、冒頭に次のような老人の「あるある」的なユダヤ人ジョークを紹介しています。


 人から「お若いですな」といわれたら、老年に入った兆しである。
 つぎに、もっと年をとると、トイレに入ってから、ズボンのチャックを上げるのを忘れるようになる。そして、さらに年を取ると、チャックを下ろすのを忘れるようになる。


 別の著書では、
人間は究極的には、何をするか(What I do)、ということよりも、何であるか(What I am)、ということが重要であるはずだ」と語っています。

 

 生きていく中で、何をするかといことは重要なことですが、ただ若さや活動力だけが評価される社会は不幸な社会です。なぜなら、そのような社会には必ず敗北が待っています。どんなに社会的に活躍した人でも老年を迎え、若い時のようには活躍できなくなる日が必ずやって来るからです。

 老人を見て、「クソじじい」「クソばばあ」と嘲る若者は、年老いて自尊心を持って生きることなどできません。トケイヤー氏は、「老人が大切にされている社会には落ち着きがある」「悲惨な老年を送りたくなかった、老人を敬うことだ」と著書の中で語っています。さすが、根底に旧約聖書の知恵がある「ユダヤ人ラビ」と思わせる言葉です。

 

 何をするか(What I do)というだけの価値観ではなく、何であるか(What I am)」という価値基準を持つことが、年齢を重ねても生きがいを失うことなく生きる秘訣です。

 老年になって、自分に対して周りがどのような評価をしようとも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43章4節)とみなしてくださる創造主を知っているなら、そのお方の前で自分は「何であるか(What I am)ということが大切になってくるのです。

DSC_7111

  今日の聖書 イザヤ書46章3-4節

 

  わたしに聞け、

  ヤコブの家とイスラエルのすべてののこりの者よ。

  胎内にいる時からになわれており、

  生まれるまえから運ばれた者よ。

  あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。

  あなたが白髪になっても、わたしは背負う。

  わたしはそうしてきたのだ。

  なお、わたしは運ぼう。

  わたしは背負って、救い出そう。

名称未設定

 「大浦天主堂」は、1865年に建てられ、現存する日本最古の木造ゴシック建造物で、1953年に国宝に指定されました。正式名には「日本二十 六聖殉教者天主堂」で、正面が26名のキリシタンが処刑された長崎西坂の丘に向けて建てられています。


 鎖国によって国を閉ざしていた江戸幕府の主なる目的は「キリスト教の禁止」にありました。明治政府になってもキリスト教の禁止の政策は引き継がれ、キリシタン禁制が解かれたのは明治6年(1873年)になってからです。当初この地で働きを始めたフランス人のプチジャン神父は、弾圧の中をくぐり抜けてきた信徒たちを捜しましたがなかなか見つけることができませんでした。


 しかし会堂が建てられた1865年、浦上村から十数名の男女が「南蛮寺見学」にやってきて、そのうちの一人の女性が祈っていたプチジャン神父に近づき、「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ(私たちは皆、あなたと同じ心です)」と、キリスト教信仰をもっていることを告白したのです。

 彼らは江戸幕府による激しいキリシタン弾圧の中でも信仰を持ち続けた人々の子孫でした。このニュースは、プチジャン神父からローマに報告され、250年ぶりの「信徒発見」「東洋の奇蹟」として世界中に伝えられました。

b7f6182d-s
プチジャン神父


 その後信徒たちは、自分たちがキリスト教信仰をもっていたことを公表し檀家を離脱するに及んで、幕府はこれを見過ごすことが出来ず、浦上村の中心人物68名を捕らえ、拷問し改宗を迫るという弾圧を始めるのです。

 幕府崩壊後、明治政府においてもこの弾圧は続き、明治維新の立役者の一人でもある木戸孝允(桂小五郎)は、「巣窟であるキリシタンの村を一掃し、住民を名古屋以西の10万石以上の諸藩に配分し、改宗させるため、藩主には生殺与奪の権限を与える」という政策を提案します。

 これが受け入れられ、1868年、浦上村の信徒たち3394名は根こそぎ流罪にされ、鹿児島、萩、福井、高知、名古屋など21藩22箇所で、拷問と棄教を迫られました。その結果611名が命を落とすという「浦上四番崩れ」と呼ばれる、明治政府による大迫害の記録として歴史に刻まれることになったのです。


 この事件は世界中から非難と抗議を受けました。木戸孝允自身も各国と結んだ不平等条約の改正のために、岩倉具視使節団の一員として1971年(明治4年)からアメリカとヨーロッパ諸国を訪問しましたが、キリスト信徒の弾圧を行い、信教の自由を認めない野蛮な国で近代文明国家とほど遠い国であると、行く先々で抗議を受けて条約改正どころではありませんでした。そこでついに、「流刑にした人々を開放し、信教の自由を認めなければ条約改正は期待できない」と東京に打電することになります。

 1873年(明治6年)、ついに明治政府はこの処分を撤回し、信徒たちの解放を決定し、キリスト教禁止令を廃止するのです。流刑によって家族はバラバラになり、重労働や改宗を迫る激しい拷問を受けながらも、大半の信徒たちは信仰を守り通しました。「改心(棄教)」して一足早く故郷に戻った者も、「改心もどし」をし、信仰を回復したといわれています。彼らは流刑された日々を「旅」と呼んで「旅の話」を子孫に語り継ぎました。

 「大浦天主堂」は、キリシタン弾圧を絶え抜いて来た「信徒たちの発見」という事実だけがクローズアップされていますが、実は信徒たちの発見の後に起こった出来事と、彼らの信仰のほうがもっと大きな出来事だったのです。

 

バージョン 2 (1)
日本二十六聖人記念館


「今日の聖書」 ヘブル人への手紙 11章13~16節


 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。


 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

朝の祈り 林竹治郎
「朝の祈り」林竹治郎(1871-1941)第一回文展入選作(1906作)北海道立美術館蔵

 上の絵は、林竹治郎画伯が第一回文展に応募し入選した「朝の祈り」という絵です。毎朝、家族で聖書を読み祈っている「家庭礼拝」の風景が描かれていますが、このモデルとなったのは敬虔なクリスチャンであった林竹治郎画伯自身の家族です。 

 母のひざに伏して祈っている三歳ほどの男の子は、後に北大医学部一期生として入学し、卒業後は医師として「救ライ(ハンセン病患者救済)」の働きのために生涯をささげた林文雄博士です。

 敬虔なクリスチャンであった両親は、清貧の中から息子を医学部に学ばせ、卒業してやれやれと思ったら、本人は「最も人の手の足りないところ、もっとも人が嫌がるところ、そして最も苦しむ人々のために生きよう」と、
ハンセン病患者救済のための医師としての道を歩み始めました。

 当初、林竹治郎画伯は、息子が
救ライ活動(ハンセン病患者救済)の医師になることを大反対していました。しかし晩年には、住んでいた札幌から鹿児島の国立ライ療養所「星塚敬愛園」の初代園長の立場にあった息子のもとに移り住み、共に住みハンセン病患者救済のために自分の絵を売ってクリスチャンである息子の働きを側面から支えました。そして、「楽園」と呼んでいた息子の家でその生涯を終えました。

 鹿児島の星塚敬愛園には、 1935年10月5日から1944年2月9日まで園長をつとめていた林文雄博士を記念した石碑があり、その中央には
林竹治郎画伯の「朝の祈り」のレリーフ(下の写真・星塚敬愛園ホームページから)がおさめられています。

 なお、林文雄博士は、ハンセン病の病型分類に大きく貢献し、世界的にも評価された研究者としても知られています。南九州、奄美、沖縄などのハンセン病患者救済のために活動し、理想の療養所建設に力を注いでいましたが肺結核で倒れ、1947年7月18日に天に召されました。
林文雄記念碑

星塚敬愛園ホームページ

今日の聖書」 マタイの福音書25章347~40節

 

 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
 

 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
 

 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

DSC_9827

 言葉は不思議なもので、人を生かすこともできるし、殺すこともできます。

 

 幼い頃に褒められた言葉がいつも心に残り、その言葉が人生の困難な局面でよみがえり、再び前進する力となることもあります。反対に、人を傷つける言葉がその人の夢を打ち砕き、絶望に追いやることもあります。特に、ネット時代には匿名で簡単に人を傷つける言葉を書き込むことができるために、数多くの悲しい事件が起こっています。

 新約聖書ヤコブの手紙には、「もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です」と書かれていますが、何気なく語った言葉が思わぬ波紋を起こすのは、日常生活の中でよくあることです。

 言葉で傷つくことが多い日常で、レテー・B・カウマンの「中傷を忘れなさい」という詩は、なぜか心に迫ってきます。この詩の中には、「忘れなさい」「笑ってすませなさい」という言葉が繰り返されます。このように語る背景に、決して人間を見捨てることのない神の存在を覚えているからでしょう。

 彼女は宣教師として日本に大きな足跡を残した方です。著書「
荒野の泉」は、一九二五年に世界十二カ国語に翻訳され出版されました。今でも聖書と共に彼女のメッセージに接している人々が大勢おられます。その理由は次のメッセージをお読みになればお分かりになると思います。彼女のように人を生かす言葉を語りたいものです。

 

 「中傷を忘れなさい」

 
 試みられた時耳に残る
中傷を忘れなさい。

 荒々しい、思いやりのない言葉を忘れなさい。

 口論やその原因を忘れなさい。

 忘れるのが何よりです。

 

 昨日の嵐を忘れなさい。

 白髪がまじってきたのを忘れなさい。

 しかし、一日の終わりに神を忘れてはいけません。

 

 争いにまけても、
 あなたの権利をごまかされても、
 笑ってすませなさい。

 

 ささいなことで悲しまず、

 小さなことで大騒ぎをせず、

 笑ってすませなさい。

 

 仕事をこじらせ、

 追いつめられてはいませんか。

 笑ってすませなさい。

 気を確かにもちたいなら、

 笑いにまさるものはありません。

 笑ってすませなさい。

 

 神はあなたがたをかえりみてくださるのですから、

 自分の思い煩いを、一切神にゆだねなさい。

DSC_9821

今日の聖書 ピリピ4章6~7節 


 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、
 あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
 あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

9eb5354f

 私がロンドンの大英博物館(British Museum)を訪れたのはもう25年ほど前のことになります。入館したとき、あのロゼッタ・ストーンがケースにも入れられず展示されているのを見て、てっきりレプリカかと思いました。まさか本物がここに無造作に展示してあるはずはないと思い、そこにおられた警備員に確かめると本物であるというのです。ほんとうに驚きました。

 

 ロゼッタ・ストーンと言えば、決してして外国に貸し出すことのない大英博物館の至宝です。それが手を伸ばせばすぐに触ることのできる無造作とも思える展示方法だったので驚きました。さすがに現在はケースに入れられ縦に展示されているようです。(下の写真)

ロゼッタストーン 
ゼッタ・ストーンは、1779年ナポレオンのエジプト遠征で要塞を築く際、他の石とは異なる石が出てきたので、多分考古学的に重要なものではないかと気付いた兵士が、要塞を築く石材から除外しました。このことにより、この石がロゼッタ・ストーンの歴史的な大発見であることが分かったのです。

 

 ロゼッタ・ストーンの発見により、それまでは解読不能であった古代エジプト文字(ヒエログリフ)の解読競争が始まりました。解読につながった理由は、エジプト語と共にギリシャ語でも同じ内容が刻まれていたことにより、1803年、ギリシヤ語の翻訳がなされ、それからさらに研究が続けられ、約20年後の1822年、エジプトの古代文字であるヒエログリフが遂に解読されることになったのです。このことによって、他のエジプト古代文書が次々と翻訳されることなり、エジプトの歴史がさらに明らかになってきました。

 

 どんなに重要なものであったとしても、無関心な人々がそれを手にした場合、それが重要なものと見なされずに葬り去られてしまいます。ですから、要塞を築く石を集めている中で、明らかにロゼッタ・ストーンが他の石とは違うことに気づいた兵士の功績は大きかったと言えます。


 ロゼッタストーンに記された日本語での詳しい内容を知りたい方は以下のサイトが有益です。http://www.moonover.jp/bekkan/hiero/


b5b1ddca
 古代エジプト人は古代エジプト文字ヒエログリフを三千数百年書き続けたが、一世紀を境にあまり書かれなくなくなり、読み方も書き方も忘れ去られてしまっていた。

今日の聖書 歴代誌第二 34章14~18節

 

 彼らが、主の宮に携え入れられていた金を取り出していたとき、祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された主の律法の書を見つけた。ヒルキヤは書記シャファンに知らせて、「主の宮で律法の書を見つけました」と言った。ヒルキヤがその書物をシャファンに渡すと、シャファンは、その書物を王のもとに携えて行き、さらに王に次のように報告した。「しもべたちに委ねられたことは、すべてやらせております。彼らは主の宮にあった金を取り出して、これを監督者たちの手と、工事をしている者たちの手に渡しました。」

 さらに書記シャファンは王に告げた。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」シャファンは王の前でそれを朗読した。王は律法のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。

↑このページのトップヘ